人穴

【ひとあな】

人穴は富士山の噴火によって作られた溶岩洞穴である。奥行きは約90m。古来より神聖な場所として信仰の対象となっていたようであり、江ノ島の岩屋洞窟とつながっているという伝説も残されている。

『吾妻鏡』によると、建仁3年(1203年)6月、源頼家は富士の裾野一帯で巻狩りをおこなった。その時、家臣の仁田四郎忠常に人穴探索を命じた。忠常は家来5人と共に人穴に入るが、蝙蝠が飛び交い蛇が足元を這うという状況。さらに千人の鬨の声のような大音声がしたかと思うと、ときおり人の泣く声が聞こえてくる。その奥に大河があって渡ることができず、川向こうに光が見えると、中に不思議な姿の人が現れた。たちまち家来4名が急死し、恐れおののいた忠常は頼家から授かった刀を川に投げ入れて立ち去った。そして翌日になって忠常はようやく人穴から出ることが出来た。土地の古老によると「この穴は浅間大菩薩が住み給う場所である」ということであった。

また、『御伽草子』にある『富士の人穴草子』は、上の仁田(新田)四郎の話をさらに拡張させ、人穴で出会った毒蛇に拝領の太刀を献上すると、本来の姿である浅間大菩薩に変化し、地獄から天道までの六道巡りに案内される内容となっている。

この富士山の神である浅間大神にまつわる地として古くからある人穴で修行を積んだのが、長谷川角行という行者である。この角行こそが江戸時代に隆盛を見た富士講の創始者であり、この事実によって人穴は富士信仰(富士講)にとっての一大聖地と位置づけられることとなる。そのため人穴周辺には信者による碑の建立が相次ぎ、現在でも230基の碑が建ち並び“人穴富士講遺跡”として保存されている。

現在、人穴は崩落の危険性があるために立入禁止となっている。またまことしやかな都市伝説として、県道に面した大鳥居は、入る時にはくぐらない、出る時にはくぐるようにしないと、事故に遭ったり霊に取り憑かれるという噂がある。

<用語解説>
◆仁田四郎忠常
1167-1203。鎌倉時代初期の御家人。源頼朝挙兵の時より従い、頼朝の信任が厚かった。曽我兄弟の仇討ちの際には、曽我十郎を討ち取る功績を挙げる。また富士の巻狩りでは猪の背に跨って仕留めたという武勇を残す。人穴探索の直後、比企の乱では北条時政の命に従って比企能員(源頼家の舅)を謀殺するが、頼家が出した時政征討を受けながら曖昧な態度を示したために殺される。

◆長谷川角行
1541-1646。長崎の出身。18歳で行者となり、全国を巡る。役行者のお告げを聞いて富士信仰を志し、人穴内で角材を立てて爪先立ちとなる苦行を積む(角行の名はこれにちなむ)。その後も全国を巡り呪符などを配布する。後に角行の直系弟子によって富士講が爆発的に発展した際に、開祖として信仰の対象となった。

◆富士講
角行創始の富士信仰が、直系の弟子である村上光清(1682-1759)による北口本宮冨士浅間神社再興と、食行身禄(1671-1733)の富士山入定によって、江戸を中心に爆発的な支持を受け、組織化された講社。定期的な拝み行事と富士登山をおこなう。また江戸の各地に「富士塚」を築いて、信仰の対象とした。

アクセス:静岡県富士宮市人穴