清涼寺七不思議

【せいりょうじななふしぎ】

彦根の町は、関ヶ原の戦い直後に徳川四天王の一人・井伊直政が移封され、彦根城を中心として発展した。それ以前は、現在の町を見下ろす位置に佐和山城があり、石田三成が統治していた。佐和山城は関ヶ原の戦い直後に落城し、その後の彦根城建設のために石垣の多くも持ち去られ、また江戸幕府にとっての逆賊である石田三成の居城として歴史の舞台からは完全に抹殺された。その佐和山城趾のふもとにあるのが、清涼寺である。

この寺には“七不思議”と呼ばれる怪現象が伝えられている。まず、この土地の前の所有者であった石田家重臣・島左近にまつわる不思議が4つ。【左近の南天】は、島左近が愛でた南天の木が残っており、それに触れると腹痛を起こす。【壁の月】は、左近の居間を寺の方丈としたが、その壁に月形の影が浮かび出てきて、壁を塗り替えても浮き出てくる。【唸り門】は左近邸の表門を山門としたが、大晦日になると風もないのに低い唸り声のような音がしたらしい(現物は江戸時代に焼失)。【洗濯井戸】は、左近が茶の湯に使用した井戸であり、汚れ物をひたしておくと一晩で真っ白になったという。

残りの3つはかなり奇怪な話である。関ヶ原の戦いの後、井伊家の家臣が佐和山城での戦利品を虫干ししていると、佐和山の方角から黒雲が湧き起こり、戦利品が風で持ち去られたという【佐和山の黒雲】。本堂前のタブの木は佐和山城築城以前からある樹齢数百年のもので、夜な夜な女性に変化しては参詣者を驚かせたという【木娘】。墓地の一角にある池で、佐和山城落城の折りに多くの人の血が流れ込み、それ以来夕刻になると水面に血みどろの女性の顔が浮かび上がるという【血の池】。

言い伝えを検証すると、この七不思議はすべて関ヶ原の戦いに密接に関係する。実際、寺の境内は、島左近の住居があった場所とされており、寺自体も初代藩主井伊直政が関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷が元で亡くなった後、その菩提を弔うために建立されたものである。そしてこの清涼寺が藩主井伊家の菩提寺として、多数の人間の血が流されたばかりの慶長7年(1602年)に建立された事実に、大きな謎が隠されているように感じるところである。

<用語解説>
◆佐和山城
豊臣政権下、五奉行の一人である石田三成が統治する。1600年の関ヶ原の戦いで三成が敗走した直後、徳川方の兵が城を急襲する。主力は関ヶ原で壊滅していたが、三成の父・政継らが奮戦。しかし裏切りもあって3日で落城し、城兵やその家族はことごとく討ち死にか自害となった。
新たな領主となった井伊直政は、人心の刷新のために佐和山城を徹底的に破却し、彦根城建築を進める(破却の徹底ぶりは、直政の死を三成の呪いとみなしてのためという説も残っている)。

◆島左近
1540-1600。本名は清興。石田三成の臣下であり、4万石の禄高の時に2万石の俸禄を持って仕官したとされ、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われた。関ヶ原の戦いの時には石田軍の主力として大いに奮戦するが、鉄砲による狙撃で負傷、最後は敵陣へ突撃して討ち死にとなる。しかし遺体が見つからず、その後も生き延びたとの噂が残っている。

アクセス:滋賀県彦根市古沢町