日本中央の碑

【にほんちゅうおうのひ】

日本古代史の中でも屈指の謎を持つのが「日本中央の碑」である。その典拠は意外に古く、歌学者の藤原顕昭が出した『袖中抄』に
<陸奥には“つぼのいしぶみ”という石碑があり、蝦夷征討の際に田村将軍(坂上田村麻呂)が矢筈を使って“日本中央”という文字を刻んだものである>
という一説がある。それ以降、東北の歌枕として和歌の中に使われ、また幻の遺跡として考えられてきたのである。

江戸時代には宮城県の多賀城の碑が“つぼのいしぶみ”と目されていたが、明治9年(1876年)の天皇の東北行幸に際して、宮内省から青森県に“つぼのいしぶみ”発見の要請があった。そこで田村麻呂が石を埋めたという伝承の残る千曳神社で大掛かりな発掘作業が行われたが、結局発見には至らなかった。ところが昭和24年(1949年)6月に、その千曳神社近くの青森県東北町石文(いしぶみ)という所から突如として「日本中央」と刻まれた石碑が出土してきたわけである。発見された場所が“石文”であり、またそのすぐそばには“都母(つぼ)”と呼ばれる地域があることが“つぼのいしぶみ”という別名と一致するなどの根拠もあって、現在のところ最有力候補という位置付けをされている。

しかしこの碑の最大の謎は、ここに刻まれた文字「日本中央」である。なぜこのような文字が日本の最北部に当たる青森県に置かれたのか。蝦夷征討の際に刻まれたという逸話から考えると、まだここは「日本」の領土ではなく、しかも「日本」という国号が使われていなかった時代である。さらに付け加えると、この碑を刻んだとされる坂上田村麻呂はこの地まで遠征していない(後任の征夷大将軍・文屋綿麻呂がはじめてこの地域一帯まで足を運んだのが史実である)。

一説によると“田村麻呂はこの先にある北海道や千島列島までを日本の領土とみなして、ここを中央と確定したのだ”という、国威発揚的発想が結構幅を利かせているらしい。だが実際のところ、ここに刻まれた“日本”という文字は“ひのもと”と読ませ、平安初期の文献によると“東北地方”一帯を指す言葉として使われていたらしい。つまり、この「日本中央」とは、坂上田村麻呂以下の蝦夷征討軍が敵地の中央部分に当たる場所としてマークしたポイントという意味と捉えるのが妥当だろう。

<用語解説>
◆日本中央の碑歴史公園
昭和24年に川村種吉が発見してから長らく簡素な祠だけの雨晒しになっていたが、平成7年に発見地近くに公園施設を作り、そこに保存館を設けて保存している。入場無料。

◆藤原顕昭
1130?~1209?。平安末~鎌倉初期の歌僧。六条藤家の中心的存在として活躍(本人は藤原氏の出身ではなく、養子として姓を賜う)。当時最高峰の歌合と言われた「六百番歌合」にも参加。『袖中抄』は文治年間(1185~1190年)に出されている。

◆つぼのいしぶみ
歌枕。和泉式部・寂蓮・西行・慈円などが詠む。「遠くにあるもの」や「どこにあるか分からないもの」という意味で使われることが多い。

◆多賀城碑
江戸時代初期に発見された古碑。発見当初より“つぼのいしぶみ”であるとされてきた。松尾芭蕉が『奥の細道』で“つぼのいしぶみ”と記しているのは、この碑のことである。

◆坂上田村麻呂
758~811。平安初期の武官。797年に征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷征討の最高責任者となる。801年に遠征を行い大勝、翌年に胆沢城(現・岩手県奥州市)建設、さらに次の年に志波城(現・岩手県盛岡市)を建設する。東北地方の多くの社寺の創建伝説、またその他の伝承に多数登場するが、そのほとんどは後年の創作とされる。

◆文屋(文室)綿麻呂
765~823。平安初期の武官。810年の薬子の乱で薬子の側に付き捕縛されるが、坂上田村麻呂の助命嘆願により救われ、田村麻呂の軍に加わって功を上げる。811年に征夷将軍(大将軍ではない)に任ぜられ、蝦夷の爾薩体と弊伊(現・青森南東部から岩手県北部)を平定する。

アクセス:青森県上北郡東北町家ノ下タ