粟田口刑場跡

【あわたぐちけいじょうあと】

“京の七口”の1つ、粟田口は東海道から京都の町への入り口にあたる。そして、このような大きな街道筋の町外れには決まって刑場が置かれていた。刑場は言うならば一罰百戒の見せしめの場であり、町外れの往来の多い道のそばに置かれることになる。

粟田口刑場は江戸時代より前から刑場として機能していたとされ、約15000人ほどが処刑されたと推測されている。有名なところでは、天王山の戦いに敗れて殺された明智光秀の遺体が晒された。また京都のキリシタンを処刑した記録も残る。さらに江戸時代には毎年3回この地で処刑が公開された。そして刑死者の供養として、京都の各宗派寺院が1000人ごとに供養碑を建てたという。その数は幕末までに15基に及ぶ。しかしこれらの供養塔は明治の廃仏毀釈によって撤去され、石材として転用されてしまってほとんどが失われてしまった(一部は日ノ岡に復元されている)。

旧東海道の九条山あたりを行くと、途中、道路の法面がコンクリートで全く覆われていない場所に出くわす。その土手になって部分の上を見ると、「萬霊供養塔」「南無阿弥陀仏」と刻まれた2つの石碑が建っている。ここが粟田口刑場跡である。

粟田口の刑場は明治維新後に廃され、明治5年(1872年)に舎密局の申請で京都府によって同地に粟田口解剖場が置かれた。記録によると、解剖場は四面がガラス張りの建物で、翌年に刑死した4名の解剖がおこなわれて多くの医師がその様子を参観したとされる。しかしその年には解剖場は病院に移転となり、この土地は忌み地として残されたのである。現在刑場跡に残されている2つの石碑は、この解剖場時代の供養塔である。

<用語解説>
◆京の七口
実際には7箇所よりも多くあり、粟田口・鞍馬口・荒神口・大原口・丹波口・東寺口・長坂口・鳥羽口・五条口・竹田口・伏見口などが挙げられる。

◆舎密局(せいみきょく)
大阪と京都に設置された、応用化学を中心とした教育・勧業機関。後に学校機関として発展的に廃止される。

アクセス:京都市山科区厨子奥花鳥町