麻羅観音

【まらかんのん】

男根崇拝をはじめとする性に絡む信仰は、多産や豊穣を祈る祭りと繋がり、あけっぴろげな大らかさに溢れた、いわゆる「陽」の要素を前面に押し出した雰囲気を持つ。しかしこの麻羅観音は、国内屈指の男根崇拝の地とされながら、その由来は陰惨である。

天文20年(1551年)、西日本最大の戦国大名であった大内義隆が、重臣の陶晴賢(当時は隆房)の謀反によって自害するという大寧寺の変が起こった。これによって一族は詮議を逃れるために潜伏を余儀なくされた。義隆の末子の歓寿丸も5歳であったが、当然追っ手が迫り、翌年には俵山に潜伏しているところを発見されて討ち取られた。しかし女装をしていたため、男児である証拠として男性器を切り取って陶晴賢に報告されたのである。

その後、惨い最期を遂げた歓寿丸を哀れに思った村人が観音堂を建てたという。境内に林立する男根は、男性器を失った歓寿丸に対する供養から始まったのではないかと推測するが、今では珍スポットとしての知名度が高くなってしまった感がある。

<用語解説>
◆大内義隆
1507-1551。周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前の守護。本拠地である山口は、戦乱の京都を逃れた公家によって文化が発達、またザビエルも来訪する屈指の都市であった。しかし対立する尼子氏との戦いで大敗して後、厭戦気分となって政務を怠り、ついには重臣の陶晴賢の謀反を引き起こすこととなる。大寧寺にて自害。

◆陶晴賢
1521-1555。大内氏の重臣。武断派であり、厭戦気分となった主君の義隆と相容れなくなって謀反を起こす。義隆を排除した後は、大友氏から養子の大内義長を立てて臣従する形で領国支配をするが、最終的に厳島の戦いで毛利元就に敗れて敗死。

◆大寧寺の変
大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって大寧寺で自害した事件。義隆の嫡男・義尊は義隆自害の翌日に捕らえられて殺害される(享年7歳)。次男は母方の実家が陶方であったために助命(変の6年後、大内義長が自害した直後に旧臣によって大内家当主として担ぎ出されるが、鎮圧され処刑)。伝承に登場する歓寿丸については、その実在は不明である。ただいずれの子供も無残な最期であると言ってよい。

アクセス:山口県長門市俵山