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専称寺 夜泣き力士像
(せんしょうじ よなきりきしぞう)
山形県山県市緑町三丁目
 専称寺は、文禄4年(1595年)に天童から山形に移設された、浄土真宗の寺院である。移設を命じたのは出羽の戦国大名であった最上義光であり、愛娘の駒姫の菩提を弔うためのものであった。それ故に壮大な伽藍が建立され、周辺には多くの塔頭が建てられて、付近は寺内町と言うべき様相を呈した。現在でも多くの寺院が残っている。
 現在ある本堂は、元禄16年(1703年)の建立で、山形市内で最も大きな寺院建築である。この本堂の屋根を支えるように建物の四隅に置かれているのが、力士像である。この4体の像が毎夜夜泣きするという伝承が残されているが、その内容はいくつかの説に分かれている。
 この4体の像を製作したのは、伝説的名工の左甚五郎であるとされる。その出来映えの見事さ故に、これらの4体の像は魂を持つようになったという。そして次のような“夜泣き”伝説が生まれたのである。
 昼間は何とか我慢しているのだが、その屋根の重さに耐えかねて夜になると「重い、重い」と力士像が泣くようになったという。たまりかねた住職の依頼によって、ある猟師が力士像の足元目がけて鉄砲を撃ち放つと、夜泣きは収まったという。
 また別の伝説では、命を得た力士達は夜中になると屋根から抜け出して、境内で相撲を取って遊んでいた。それをけしからんと怒った住職が、動けないように足に釘を打ち込んだ(あるいは鉄砲で足を撃った)ところ、それから悪さはしなくなった代わりに屋根の上で夜泣きをするようになったという。あるいは、見咎めたのは最上義光自身であり、娘の菩提を弔う寺院の本堂を守護する像の悪さに激怒して鉄砲を撃ったとも伝わる。
 いずれにせよ現在は夜泣きが収まった力士像であるが、その姿は個性的であり、魂を宿していろいろな悪さをやったという伝承が発生したのも頷けるところである。
<用語解説>
最上義光
1546-1614。出羽国の武将。義光の代になって出羽地方一帯で勢力を拡大する。豊臣秀吉の奥州仕置によって本領安堵。その後、豊臣秀次事件で愛娘の駒姫を失うと、昵懇であった徳川家康へ傾倒する。関ヶ原の戦いで東軍に属し、領内に侵攻した上杉勢と戦う。戦後、山形藩主として57万石の大大名となる。

駒姫
1581-1595。東国一の美女とうたわれ、父母が溺愛していた。奥州仕置で東北を訪れていた豊臣秀次が目をつけ、再三側室になるよう求めた。15歳になった時に京都へ行くが、直後に秀次は謀反の疑いで切腹、駒姫も秀次の他の側室と共に捕らえられ、助命運動もおこなわれたが、三条河原にで斬首となる。その14日後には生母(最上義光正室)も亡くなる。これを機に義光は専称寺を山形に移設して菩提を弔うことになる。またこれをきっかけにして最上家は反豊臣・親徳川の急先鋒となり、関ヶ原の戦いなどにも影響を与えた。

左甚五郎
江戸初期に活躍したとされる、伝説の彫り物職人。日光東照宮の眠り猫などの作品を残したとされるが、実在の確たる証拠もない。 
<関連伝承地>

夜泣き力士像

夜泣き力士像

専称寺

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