闘鷄神社

【とうけいじんじゃ】

地元では“権現さん”の名で通っている神社。創建は允恭天皇8年(419年)とされ、熊野権現を祭神として田辺宮と呼ばれた。しかしこの神社が発展するのは平安時代末の頃からとなる。熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)を祀り、さらに熊野別当であった湛快が田辺の地に移り住んで田辺別当として独立することによって、熊野三山の別宮的存在となっていったのである。実際、田辺の地は熊野古道の大辺路(海側ルート)と中辺路(山間ルート)の分岐点であり、熊野詣での際にこの神社で遙拝を済ませて帰途に就く者も少なくなかったと言われる。

現在の名称である“闘雞”の由来は、湛快の子である湛増による。源平の合戦の折、熊野別当として周辺に勢力を拡大し、熊野水軍を率いる湛増に対して、源氏・平氏方いずれからも協力を求められた。そこで湛増は神社で闘鶏をおこなって、源平いずれに味方するかを決めたといわれる。『平家物語』によると、いずれに味方するか迷った時に熊野権現に祈りを捧げると「白旗(源氏)につけ」との託宣があった。さらに社地にあった鶏を紅白に7羽ずつに分けて戦わせたが、ことごとく白側の鶏が勝ったため、ここに及んで湛増は源氏方への味方を決めたとされる。そして熊野水軍は源氏の援軍として壇ノ浦の合戦に参加。平氏を滅ぼす功績を挙げたのであった。これにより闘雞神社という名が付いたとされる。

また湛増の息子の一人が武蔵坊弁慶であるとの伝説もあり、境内にはそれらの銅像もある。

<用語解説>
◆熊野別当
熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)を統轄する役職。この3つの神社が“熊野信仰”として一体化された平安期頃から設けられたとされる。世襲制であるが、後に新宮別当家と田辺別当家などに分裂する。湛増らが活躍した鎌倉幕府成立期が最盛期であり、血縁や戦功によって鎌倉幕府の地頭職を得るなどして勢力を拡大させた。南北朝時代には衰退。

◆湛快
1094-1174。第18代熊野別当。熊野詣での要衝である田辺へ進出して田辺別当となる。平治の乱が起こった時に別当職であった湛快は、平清盛に助言して勝利へ導いたとの伝説があり、平家との結びつきが強かったとされる。

◆湛増
1130-1198。第21代熊野別当。父からの縁で平家に味方するが、後に源氏に与する。妻の母は新宮別当家の鳥居禅尼(源為義の娘、源行家の姉に当たる)。壇ノ浦の戦いでは熊野水軍200艘を率いて参戦して勝利に貢献、後に鎌倉幕府より地頭職を認められる。息子に一人が武蔵坊弁慶であるとされるが、史実としては未確認。

アクセス:和歌山県田辺市東陽