小山塚

【こやまづか】

天正13年(1585年)、羽柴秀吉は一説10万もの兵を自ら率いて紀伊国を攻めた。敵対する根来・雑賀衆を討伐するためである。首尾よく根来寺を制圧した秀吉の軍勢は、雑賀衆の残党約5000が立て籠もる太田城を取り囲んだ。

太田城は、現在の和歌山の市街地にあった、かなり強固な城であった。さらに雑賀衆の鉄砲隊がおり、数を頼りに攻めるにせよ、かなりの被害を覚悟しなければならなかった。そこで、緒戦で53名の戦死者を出した後、秀吉は水攻めで城を落とすことに決めた。そして城を囲むように、総延長6kmにも及ぶ堤防をわずか6日間で築き上げた(従事者は延べ46万人とも伝わる)。

日本三大水攻めと言われる攻防戦であるが、堤防の一部決壊によって守備をしていた宇喜多勢に多数の溺死者が出たり、城攻めに安宅船を使うものの不首尾に終わったりなどの出来事があったが、約1ヶ月後に城側が降伏して決着が付いた。(籠城していた多くの農民については助命し、すぐに耕作が可能な状況にしてやったとされる。ただその際に、武器の所持を禁止しており、これが「刀狩」の嚆矢とされている)

降伏の条件は、城主の太田左近以下53名の自害であった。これは城攻めの緒戦で戦死した者と同じ数にしたとも言われている。自害した者の首は晒された後、3箇所に分けて埋葬された。その1つがこの小山塚である。現在ある碑は昭和27年(1852年)に建てられ、その後の区画整理によって昭和60年(1985年)に現在地に移転した。隣にある来迎寺がかつての太田城の本丸に位置すると伝えられている。しかし既にこの周辺は住宅地となっており、城跡の痕跡すら存在していないのが現状である。

<用語解説>
◆日本三大水攻め
備中高松城攻め、紀伊太田城攻め、武蔵忍城攻め。前の2つは羽柴秀吉によるもの、忍城攻めは石田三成によるものである。

アクセス:和歌山県和歌山市太田