頓兵衛地蔵

【とんべえじぞう】

新田義興謀殺を題材にして浄瑠璃『神霊矢口渡』を書いたのが平賀源内である。彼はこの芝居の中で、謀殺に一役買った船頭に“頓兵衛”という名前を付けた。この頓兵衛であるが、義興以下13名の武将を船に乗せ、多摩川の半ばまで来た時にわざと櫓を取り落とし、それを拾うと偽って川に飛びこんだ。さらに、あらかじめ細工していた船底の栓を抜いて船を沈め、そのまま向こう岸に泳いで逃げていったという。ここまでのことをやれば、直接手を下していなくても頓兵衛が義興を殺したと言われても仕方がないところである。当然のことながら、頓兵衛は竹沢右京亮・江戸遠江守と並んで、源内の浄瑠璃では悪役である。

ところが、竹沢・江戸の両名が義興の祟りにあって死ぬに至って、頓兵衛も前非を悔いて地蔵を一体作った。それが“頓兵衛地蔵”と呼ばれる地蔵なのである。だが、義興の祟りはこの地蔵にも直撃し、その顔を溶かしたのである。それ故、この地蔵は一名“とろけ地蔵”とも言われることになった。

住宅地の一角に頓兵衛地蔵の祀られたお堂がある。中を見ると(お堂の外ではない)、なるほどボロボロと崩れた地蔵であるのがわかる。実はこの地蔵は砂岩でできており、その崩れやすい材質のためにこのような姿になったらしい。またこのような姿であるために“いぼ取り”の効験があるとされ削り取られた、あるいは義興を殺した張本人が祀った地蔵に八つ当たりした者が石をぶつけてボロボロにしたという説もある。いずれにせよ義興の祟りの凄まじさを後世に伝える物証となった訳である。

ちなみにこの地蔵にはもう1つの説が存在する。この地蔵は義興の供養のために頓兵衛が作ったのではなく、祟りにあって狂死した頓兵衛自身の供養のために造られたものだという。

<用語解説>
◆新田義興
1331-1358。南朝の武将である新田義貞の次男。足利将軍家の不和に乗じて1352年に関東で挙兵し、一時は鎌倉を攻略する。足利尊氏死去直後に謀殺される。祟りの顛末については、平賀源内によって書かれた『神霊矢口渡』という浄瑠璃でも有名となる。

◆『神霊矢口渡』
1770年初演。この芝居に登場する頓兵衛は剛胆で、義興ばかりではなく、弟の義岑をも殺害しようとする。さらに義岑の身替わりとなって殺される娘の諫言にも心動かされることなく、最期は新田家の神矢に貫かれて絶命する。

アクセス:東京都大田区下丸子