女塚神社

【おなづかじんじゃ】

矢口渡で新田義興を騙し討ちにしたのは竹沢右京亮と江戸遠江守であるが、彼らの策略はかなり用意周到なものであった。 鎌倉公方の執事である畠山国清と謀り、わざと罪を得て鎌倉から追放されたり、鎌倉方と不和になったりすることで、義興の属する南朝方に近づいたのである。最初は二人の行動に対して疑念を持っていた義興であるが、徐々に彼らを信用するようになってきた。二人もとにかく取り入るためにかなりの努力をしている。その一番最たるものは“色仕掛け”である。二人は連日のように酒宴を開いては義興を招き、その席に多数の美女をはべらせて接待したのである。

竹沢右京亮が義興に奉った美女が少将局である。少将局は京都から来た16歳ぐらいの上臈であったとされるが、義興はいたく気に入ったようである。そして少将局も竹沢らの謀略に加わりながらも、次第に義興に惹かれていったという。一方いよいよ時機到来と見た竹沢は、義興を自宅へ招いて謀殺しようとする。しかし、竹沢の企みを知る少将局は義興に夢見が悪いので七日間は外へ出ないように文をしたためる。義興はその文を見て外出を取りやめて危機を脱したが、少将局は事が露見して竹沢らによって殺されてしまうのであった。

殺された少将局の遺骸は打ち捨てられたままであったが、村人が憐れんで塚を建てた。その塚のあった場所に八幡宮を移したのが女塚神社である。“女塚”という名称は言うまでもなく、少将局のことである。場所は東急蒲田駅から歩いて数分、かなり繁華街に近い場所にある。そして新田神社からもそれほど離れてはいない。神社本殿の脇に祠があり、これが女塚を祀る祠であるらしい。ちなみにこの神社にある石碑では、少将局は義興の死を知って自害したとされている。

<用語解説>
◆新田義興
1331-1358。南朝の武将である新田義貞の次男。足利将軍家の不和に乗じて1352年に関東で挙兵し、一時は鎌倉を攻略する。足利尊氏死去直後に謀殺される。祟りの顛末については、平賀源内によって書かれた『神霊矢口渡』という歌舞伎芝居でも有名となる。

アクセス:東京都大田区蒲田