鈴ヶ森刑場跡

【すずがもりけいじょうあと】

歴史的な重みを考えると、この土地ほど血塗られた場所はないのではないだろうか。鈴ヶ森刑場は、慶安4年(1651年)に開設。東海道に面し、江戸の入り口に当たる場所に作られ、小塚原刑場・板橋刑場と並んで、江戸の三大刑場と言われる。最初にここで処刑されたのは、慶安の変で捕らえられた浪人・丸橋忠弥。明治4年(1871年)に閉鎖されるまでの200年強の間に10万以上の人間がここに屍を晒しているのである。

この鈴ヶ森の刑場だけにあったと言われる処刑法は「火炙」と「磔」である。それに使われたという台石がここには残されている。「火炙」は放火の罪に対して、「磔」は主殺し・親殺しなどの重罪に対して執行される刑であり、この2つの処刑方法は他の刑罰よりも遥かに凄惨である。そしてそれらを街道筋でおこなったのは、犯罪抑止のための見せしめ的な目的があったものと推察される。

現在の刑場跡は、国道15号線に面した大経寺の敷地内にこぢんまりとまとめられている。それほど広くないエリアには、刑場にまつわる3つ目の遺跡をである【首洗いの井戸】がある(ただし井戸は完全に金網で防備されており、中を覗き込むことは出来ない)。また罪人供養のために置かれた題目供養塔も残っている。

<用語解説>
◆丸橋忠弥
?-1651。出自は不明であるが、一説では長宗我部盛親の庶子ともされる。お茶の水で槍術の道場を開いていたところ、軍学者・由井正雪の幕府転覆の陰謀に加わる。江戸城攻めを任されるが、一味の密告によって捕縛。その後鈴ヶ森刑場にて磔となった。

◆大経寺
日蓮宗の寺院。刑場が出来た当初より隣接するようにあった小堂が起源と考えられる。日蓮宗の寺院・大経寺となったのは昭和17年(1942年)である。

アクセス:東京都品川区南大井