円通寺

【えんつうじ】

坂上田村麻呂が開創、源義家が再興したとされる、歴史的にも古い寺院である。特に、源義家が奥州の戦役からの帰途に賊の首を埋めて、この地に塚を築いたことから“小塚原”の地名が起こったともされている。また時代がくだって江戸時代には「下谷の三寺」としてもつとに有名であった。

現在において円通寺に残る伝承で最も有名なものは、彰義隊にまつわるものであるだろう。

慶応4年(1868年)の上野山での新政府軍と彰義隊との一戦はわずか1日たらずの短さであったが、彰義隊側の戦死者は266名であったとされる。しかし賊軍の立場であった彰義隊の遺体は放置されたままであり、それを最初に弔ったのが、円通寺の住職・佛磨和尚であった。それがきっかけで遺体の埋葬供養することを認められた和尚は、上野山で火葬をおこない、さらに円通寺に266名の隊士を埋葬したのである。

現在、円通寺の境内の一角には、旧幕府軍の幹部によって建てられた碑が並ぶ。そして彰義隊供養を助けた三河屋幸三郎(寛永寺の御用商人)が、戊辰戦争で命を落とした旧幕府軍を弔うために密かに建てた「死節之墓」も境内にある。新政府にたてついた賊軍の戦死者を供養することが憚られた時代(遺体の埋葬を禁ずるというお触れを官軍が出したとも言われるほどのタブーであった)、円通寺だけは埋葬供養の許可を得た唯一の寺院ということで、大っぴらに供養ができるとの理由から参詣する者も多かったといわれる。

さらに明治40年(1907年)には、上野戦争の最大の激戦地にあった黒門も円通寺に移設された。至る所に銃弾の跡が残る門を見れば、この戦いがいかに凄まじいものであったかを窺い知ることができるだろう。

<用語解説>
◆彰義隊
鳥羽伏見の戦いで大阪から敗走し蟄居した徳川慶喜を警固する名目で結成された、幕臣を中心とする部隊。新政府軍との戦いに敗れた藩士などが糾合し、最大時に約4000名近い隊士があったとされる。江戸市中取り締まりの任に就いていたが、江戸城無血開城後は度々新政府軍と小競り合いを起こしたために、新政府軍の攻撃(上野戦争)に遭って壊滅。多くの隊士は江戸から逃亡したが、後まで旧幕府軍の残党狩りの中で最も厳しい詮議がおこなわれたとされる。

◆上野戦争
慶応4年(1868年)5月15日に、寛永寺に立て籠もる約1000名の彰義隊を新政府軍が撃破した戦い。大村益次郎が立案。緒戦では彰義隊が薩摩軍と互角に白兵戦をおこなったが、肥前藩の最新鋭アームストロング砲で砲撃を繰り返すことで新政府軍が有利に戦いを進め、1日で彰義隊を壊滅させた。

アクセス:東京都荒川区南千住