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白人神社/神明神社
(しらひとじんじゃ/しんめいじんじゃ)
徳島県美馬市穴吹町口山
 創建は、第24代仁賢天皇の時代にまで遡るとされる。この地に白髪の翁が天降って「この谷は聖地なり。神々を祀り鎮め、(地名を)宮内と改めるべし」と告げたことから始まる。
 ただし現在地に社殿は設けられたのは、さらに時代が下って平安時代末期。保元の乱で讃岐に流された崇徳上皇を訪ねて源為朝が四国に来た。そして讃岐と阿波国境にある相栗峠から弓を引いたところ、矢が毘沙門嶽に当たって跳ね返って地面に落ちた。その場所に為朝は社殿を建立し、矢を奉納したとされる。現在でもそれは社宝としてあり、この故事にちなんで“御的行事”がおこなわれる。
 その後、阿波藩蜂須賀家の筆頭家老となる稲田植元が脇城を統治するとこの神社を篤く信仰して社殿などを再興した。稲田家は後に淡路城代となってこの地を離れるが、代々寄進を続けており、武具や書画が多数奉納されている。
 この白人神社の奥宮に当たるのが、すぐ横にある丘陵を登り切ったところにある神明神社である。自然林の中にある神社はその造りが希有のものであり、磐境とされる南北7m、東西22m、高さ1〜2mの長方形状の石垣に囲まれ、南側に3つの入口、北側に5つの祠が置かれている。この構造が古代ユダヤの祭祀場と同じであるとして、しばしば“日猶同祖論”の根拠として取り上げられている。
<用語解説>
源為朝
1139-1170?。保元の乱で父・為義と共に崇徳上皇に味方して敗れる。伊豆大島へ流されるが、武威によってその地を支配する勢力となったため、史実では追討されて自害したとされる。しかし、琉球に渡って王家の祖となったなどの数々の伝説があり、崇徳上皇を訪ねたというのも史実ではない。

稲田植元
1545-1628。蜂須賀正勝(小六)の客将であり義兄弟。正勝と共に豊臣秀吉に仕えた。蜂須賀家が阿波一国を領すると筆頭家老の形で脇城周辺を知行する。大坂の陣で蜂須賀家が淡路一国を加増されると、徳川家康の命により植元の息子の示植が淡路城代として赴任した。

日猶同祖論
古代イスラエルにおいて“失われた十支族”と呼ばれる人々が日本に渡来し、皇室や神道にその痕跡を残しているとする説。
<関連伝承地>
いさら井(京都府)

白人神社

神明神社の磐境

神明神社の祠

神明神社の祠

神明神社の磐境


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