八王子城址 御主殿の滝

【はちおうじじょうし ごしゅでんのたき】

八王子城は関東屈指の山城と言われる。現在、城址は史跡として復元されているが、実際の規模はそれを遙かに上回り、住宅地となっている周辺地も城址であるとされている。

八王子城は、関東を実効支配していた北条氏によって建てられた。城主は、北条3代目・氏康の三男、氏照である。当初は滝山城を居城としていたが、より防御の堅固な山城を築くことにした。小田原に本拠を構える北条氏とすれば、関東平野の各地に守りの堅い支城を建設して敵を食い止めれば、小田原からの本隊が攻撃。敵の侵攻を確実に抑えることが出来た。着工は元亀2年(1571年)頃。ちょうど武田信玄と関東各地で戦いを繰り広げていた頃である。

ところが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めは、圧倒的な兵力で関東全域の支城を落としていったのである。八王子城も、豊臣軍の北陸部隊である前田・上杉の約3万の兵力の前に落城する。しかもその戦いは、小田原攻め最大の悲劇とも言われるほどの悲惨なものであった。

北陸勢は碓氷峠から関東に侵攻、北条氏邦の守る支城の鉢形城を開城させるが、これに1ヶ月も費やしたために秀吉より叱責を受けていた。そのために次に攻める八王子城では、出来るだけ素早く決着をつけて信頼を回復させる必要があった。対して八王子城では、城主の氏照以下主力の兵は小田原城で籠城しており、わずかの守備兵と近隣の女子供ばかり約3千名ほどが籠城して戦いに備えた。

6月23日、北陸勢の主力は一気に城へ殺到。対する守備側は一時的に反撃するが、適わぬとみて自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げて全員が死を選んだのである。わずか1日の攻防で、滝を流れる川は三日三晩血で染まったという。さらに北陸勢は見せしめとばかりに、婦女子の首を刎ねて小田原に運び、城から見えるように並べたのである。難攻不落と謳われた小田原城が開城するのは、それから12日後のことであった。

その後八王子城は、直後に関東に移封された徳川家康の命によって廃城となった。そして付近の村では、血で染まった川の水で米を炊くと赤く染まるとの言い伝えが残り、供養のために赤飯を炊いたともいう。戦いで最も多くの死者を出した御主殿の滝は今でもあり、そのそばには供養のための碑がある。未だに奇怪な噂が聞かれる場所となっている。

<用語解説>
◆北条氏照
1540-1590。北条氏康の三男。北条氏の主力として武田氏・上杉氏と戦う。居城を滝山城から八王子城へ移している(これが八王子の地名の由来)。豊臣秀吉との戦いでは主戦派として小田原城に籠城する。開城後は宗家の氏政(実兄)と共に切腹を命じられる。
ちなみに鉢形城主の北条氏邦は氏照の実弟。小田原籠城ではなく野戦を主張したために、小田原を離脱して鉢形城で敵を迎える。開城後は一命を許されて剃髪。

アクセス:東京都八王子市元八王子町