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河津三郎血塚
(かわづさぶろうちづか)
静岡県伊東市八幡野
 閑静な住宅地の外れに血塚の入口がある。車止めの先は石畳の道、そして両脇にはよく手入れされた林が続く。元々この道は伊豆半島の東海岸を通って下田へ至る主要な街道であった「東浦路」の一部であり、近年自治体が整備して遊歩道としたものである。この石畳の道の奥にあるのが、河津三郎の血塚である。
 河津三郎祐泰は伊東祐親の嫡男で、河津荘を領有していたために「河津」を名乗っていた。この当時、伊東祐親は伊東荘の所有権を巡る問題で恨みを買っていた。相手は義理の甥にあたる工藤祐経。祐親は祐経の所領であった伊東荘を奪い取り、さらに祐経の妻となった自分の娘を強引に他家に嫁に出すという暴挙に出たためである。ただ祐親からすれば、伊東荘は元来父親の所領であり、父の死後に祖父が後妻の連れ子が産んだ子を嫡男に据えて伊東荘を与え、嫡孫である自分を次男として養子に迎えたこと自体が理不尽な仕打ちであったわけであり、その後妻の子の息子から伊東荘を取り戻しただけという認識だったとされる。
 だが遺恨を持つ工藤祐経の思いは変わりなく、復讐のために暗殺を企てたのである。安元2年(1176年)、伊豆に流された源頼朝の無聊を慰めるべく狩りがおこなわれた。その帰り道で待ち伏せたのは、祐経の配下の大見小藤太成家と八幡三郎行氏の二人。共に弓の名手で、街道を行く祐親父子を遠矢で射殺そうとしたのである。街道を眼下に見おろす椎の木三本に身を潜ませて、何名かの武将が通るのをやり過ごすと、先に馬に乗って現れたのは河津三郎。目の前を通り過ぎるのを待って八幡三郎が放った矢は、鞍の後ろをかすめて河津三郎の腰を貫いた。剛の者である三郎は応戦しようとするが、力尽きて落馬する。
 続いてやって来た伊東祐親を狙った大見小藤太の矢はわずかにそれて失敗。他の武将も異変に気付いたために、二の矢を放つことなく二人の刺客は退散した。祐親は落馬した息子を抱きかかえるが、既に三郎は虫の息であった。三郎は最期の力を振り絞り、自分を射た者が八幡・大見の両名であり、工藤祐経の企みであろうと告げた。そして言葉を継いで、残される子供を案じつつ息絶えたのである。
 父を殺された遺児は、その後母親の再婚のために川津の家を離れたが、決して復讐を諦めてはいなかった。父の死から17年後の建久4年(1193年)、兄弟は富士の巻狩の場で工藤祐経を討ち果たしたのである。これが日本三大仇討ちの一つとされる曾我兄弟の仇討ちである。
 河津三郎の血塚は、曾我兄弟の仇討ち発端の地として知られ、多くの文人墨客が訪れたとされる。塚が建てられた時期は不明であるが、塚の頂上に置かれた宝篋印塔は南北朝時代の特徴を持つとされており、おそらくその時代に伊東氏の一族の者が塚を造ったのではないかと推測される。
<用語解説>
河津三郎祐泰
1146?-1176。伊東祐親の嫡男。父より河津荘を受け継いだため、河津の姓を名乗る。工藤祐経の命により暗殺される。後に子の曾我十郎祐成と曾我五郎時致が仇を討つ(祐泰の妻が曾我祐信に再嫁したため曾我姓を名乗る)。ちなみに相撲の決まり手の1つである「河津掛け」は、祐泰考案の技であることからその名が付いたとされる説がある。

伊東祐親
?-1182。伊豆の豪族、東国における平家方の武将として平清盛の信頼を得る。源頼朝が伊豆に流罪になった際の監視役に任ぜられる。頼朝挙兵後も一貫して平家方に味方し、富士川の合戦の後に捕らえられる。一旦は助命されるが、それを潔しとせず自害する。

工藤祐経
?-1193。源頼朝挙兵の初期より臣従し、頼朝の寵臣となる。『吾妻鏡』によると、捕らわれた平重衡を慰める宴席で鼓を打って今様を謡ったり、静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際にも鼓を打つなど、歌舞音曲に通じているが、武将としての戦功はあまりなかったとされる。建久4年の富士の巻狩りの最終日に、遊女と寝ていたところを曾我兄弟に襲われて討ち取られる。嫡男の祐時は伊東姓を名乗り、日向伊東氏をはじめとして、全国各地の伊東氏の祖となっている。

日本三大仇討ち
曾我兄弟の仇討ち、伊賀越えの仇討ち(鍵屋の辻で荒木又右衛門が助太刀したことで有名)、赤穂浪士の討ち入りを指す。
<関連伝承地>

河津三郎血塚


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