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お吉ヶ淵
(おきちがふち)
静岡県下田市河内
 明治24年(1891年)3月27日の豪雨の夜、一人の女性が下田街道沿いの稲生沢川の淵に身投げをした。その女性の名は斎藤きち。“唐人お吉”と呼ばれた女性である。
 きちの生涯は、幕末の動乱期に翻弄され流転した。幼い頃に下田に移り住んで、14歳で下田一の人気芸妓となったきちであるが、安政4年(1857年)に人生を決定付ける転機が訪れる。当時下田に滞在していたアメリカ総領事のハリスの“身の回りの世話”をするよう説得されるのである。
 胃潰瘍で倒れたハリスとしては看護をしてくれる女性を希望したと言われるが、幕府はこれを愛妾の要求と解釈してきちに白羽の矢を立てたのである。期間として約2ヶ月の勤めであったが(最初の3日間で一旦暇を出されるが、支度金25両のこともあってきちの側から再び世話を願い出ている)、異国人の私的な身の回りの世話をしたという偏見や、その報酬の高さ(月給10両)からくる妬みのせいか、その後きちは下田の町で「唐人お吉」と呼ばれ、迫害を受けるようになるのである。
 ハリスと共に江戸へ赴いたきちは、そこで職を解かれた直後に行方をくらました。そして明治維新頃に横浜に現れ、かつて将来を誓い合った男と偶然再会して所帯を持つ。二人して下田に戻ったが、結局いさかいが絶えなくなって離縁。きちは再び下田を離れて三島の遊郭で芸者として働きに出る。数年後、蓄えを持って下田に戻り、支援を受けて小料理屋「安直楼」を始めるが2年で破綻する。その頃には既にアルコールによる障害が出始めており、生活もすさんでいき、ついには物乞い同然の身にまで堕ちてしまう。そして悲劇的な死を遂げてしまうのである。
 淵から引き揚げられた遺体は引き取り手もなく、菩提寺も埋葬を拒否したため、3日間もその土手に放置されたままだったという。結局、宝福寺の住職が遺体を引き取り境内に埋葬したのである(これが現在の墓所)。死んでからまで下田の人々から嫌われ続けたきちであるが、彼女自身はこの土地を離れては戻ることを繰り返している。それを考えると、「世をはかなんで」投身自殺したとされる最期も、もしかすると彼女の本意ではなかったような印象も出てくる。
 歴史の表舞台に出ることもなく、翻弄されるだけで消えてしまったようなきちであったが、突如としてその存在が人々の目に触れるようになる。昭和2年(1927年)に村松春水が書いた小説『実話唐人お吉』、翌年その版権を買った十一谷義三郎が著した『唐人お吉』を下敷きにしたサイレント映画が立て続きに公開され、彼女の名前は全国に知られるようになった。そして昭和8年(1933年)、この地を訪問した新渡戸稲造が、このお吉ヶ淵を詣でて供養のための地蔵を建立した。これが現在の“お吉地蔵”であり、またお吉ヶ淵は小公園化され、命日には「お吉祭り」と称して下田の芸者をはじめとする多くの女性がこの地を訪れて冥福を祈るようになっている。
<用語解説>
ハリス
1804-1878。アメリカの外交官。40代になって貿易業を営み、東洋に在駐する。かつて公務に就いていた関係から、日本総領事を希望して就任を勝ち取る。下田の玉泉寺を領事館として赴任し、将軍との謁見を成功させ、1958年に日米修好通商条約締結までこぎ着ける。条約後は下田から江戸に移り、5年9ヶ月間日本に滞在する。
アングリカン・チャーチの熱心な信者であり、生涯独身を貫く(生涯童貞であったとも言われる)。また日本の風習なども理解・賞賛しているが、唯一混浴の習慣だけは理解できないとしているなど、性的に潔癖な性格を持っていたとの説もある。

「唐人お吉」の映画
昭和5年(1930年)に2本続けて公開される。その後8年間に6回も映画化されており、当時非常に人気のあったコンテンツであったと考えられる。
最初にきちの生涯を書いた村松春水は、下田に移り住んできた眼科医師。きちに関する聞き取り調査をおこない、郷土誌の『黒船』に発表し、次いで単著を刊行する。(村松がきちに興味を持つきっかけとなったのはある人物との出会いであると言われるが、その人物はきちにハリスの元に仕えるよう説得した、下田奉行の伊佐新次郎であったとも伝わる)。
版権を買い取って本格的な小説にまとめた十一谷義三郎は、川端康成や横光利一と共に『文藝時代』に参加した小説家。『唐人お吉』がヒットして、流行作家となる。

新渡戸稲造
1862-1933。教育者。『武士道』の作者として世界的に著名。新渡戸がお吉地蔵を建立したのは最晩年であり、依頼直後にカナダへ渡りその地で客死したため、完成されたものは見ていない。
<関連伝承地>

お吉ヶ淵

お吉ヶ淵・供養碑

お吉ヶ淵・お堂

お吉ヶ淵・お吉地蔵


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