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上臈塚
(じょうろうづか)
静岡県浜松市天竜区船明
 浜松市内から国号152号線を北上、二俣町をさらに北へ進んだところに船明という地区がある。その国道沿いに、小規模ながら石垣が積まれた墳墓と思しき場所があり、その上に小さな祠が建てられている。これが上臈塚である。
 南北朝時代も終わりの頃。皇室祈願所となっていた光明寺に、身なりの良い若い女性とその供侍が訪れ、しばらくこの寺に参籠したいという。寺の者は、それなりの身分相応の者であろうとうかがい、それに応じることにした。
 何日間かは何事もなく過ぎたが、ある日、一人の武者が光明寺にやって来て、若い姫とその供侍の二名が立ち寄っていないか尋ねてきた。そしてそれらしき者が参籠したことを聞くと、急ぎ戻っていったのである。
 翌日、大勢の武士が光明寺に押し掛けてくると、姫と供侍が参籠していたお堂に押し入った。しかし既に二人はその場を退去しており、寺の者への感謝をしたためた書き置きが残されているばかりであった。
 それから数日後、光明寺からほど近い船明にある薬師堂で、姫は自害して果てていた。もはや逃げおおせぬと観念したのであろう。憐れに思った村人は墓を築き、一人残された供侍はその墓を守るように七日の間いたが、やがて同じように自害したのであった。村人はこの侍のためにも墓を築いてやったという。
 結局、この逃げてきた主従が何者であったかは分からずじまいであったが、村人はおそらく追ってきた武士は北朝の手の者であり、姫は南朝の身分ある者の子女ではなかろうかと推察した。そしていつしか、この姫は長慶天皇の第一皇女・綾姫とされ、言い伝えられることとなったのである。この姫の墓とされるのが上臈塚である。なお供侍の墓も“下賤塚”と呼ばれてあったが、既に取り壊されて現存していないという。
<用語解説>
光明寺
天竜区山東にある。養老元年(717年)に行基によって開かれた古刹である。上臈塚からは1km足らずの場所にある。

長慶天皇
1343-1394。第98代天皇(ただし在位を公認されたのは大正時代に入ってからのことである)。史料に乏しいため謎の多い天皇とされ、父・後村上天皇の崩御直後に即位し(1368年)、弟・後亀山天皇に譲位して院政をおこなったとされる(1383年)。また譲位後、南朝再興のために日本各地を訪れたとされ、各地に滞在の伝承が残る。また南北朝の合一に関しては、在位期間中その交渉が途絶えており、強硬な反対論者であったと推測される。なお皇子は数名いるが、皇女の存在に関しては明確な史料はない。
<関連伝承地>

上臈塚


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