松江大橋 源助柱

【まつえおおはし げんすけばしら】

松江大橋は、松江市内を流れる大橋川に架かる橋であり、地元では“大橋”の名で通る。松江城下では最も古い橋であるとされ、慶長12年(1607年)に堀尾吉晴(藩主・忠晴の祖父、藩主幼少のため実質上の藩主)の命によって架けられた。出雲・隠岐の藩主であった堀尾氏は月山富田から松江に藩庁を移転するべく、城を築いて城下を整備していた。その新しい城を築くため、月山富田城を解体して資材を運び込む必要があり、橋はその目的で架けられたとされる。

当時、大橋川には“カラカラ橋”と呼ばれる、竹の細い橋が架かっていた。そこに資材が運べるような巨大な木造の橋を造ることとなった。しかし橋は容易に造れず、何度も失敗を繰り返した。そこで誰が言うとはなしに、人柱を立てることとなった。翌日の一番最初にカラカラ橋を渡った、マチのない袴をはいた男を人柱にすることと決めた。そしてその日の朝にその姿で橋を渡ったのが、足軽の源助だった。源助は有無も言わさず箱に押し込められ、そのまま橋脚の下に埋められたのである。そしてその甲斐あってか橋は完成、その後、大橋の中央の橋脚を「源助柱」と呼ぶようになったという。

この大橋はその後も何度も架け替えられ、昭和12年(1937年)に17代目の橋が完成した。この時の工事で1件の死亡事故が起こった。島根県土木技師で、工事の現場監督であった深田清が、橋脚基礎工事の最中に不慮の事故で殉職したのである。この事故が起こった場所が、かつて源助が人柱として埋められたとされる橋脚のそばであったために「昭和の源助」や「昭和の人柱」という見出しで新聞に取り上げられた。松江の人々は昭和に至るまで、人柱の伝承を鮮明に記憶していたのである。

現在、17代目の橋の南側に小さな公園がある。そこには2つの石碑が並んでいる。1つは人柱となった源助の名を刻み、もう1つは事故で亡くなった深田技師の名が刻まれている。

アクセス:島根県松江市白潟本町