蟹塚

【かにづか】

東海道五十三次の49番目の宿である土山は、江戸から発って鈴鹿峠を越えた位置にある宿場である。この地の名物として古くからあるのが“蟹ヶ坂飴”である。万治年間(1658~1661)に成立したとされる浅井了意の『東海道名所記』にもその名が記されている。そして同時にこの“蟹ヶ坂”という地名にまつわる怪異譚も書かれている。

昔、鈴鹿山麓に一丈(約3m)もの大きさの化け蟹が住みつき、近隣の人や動物、さらに旅人を襲っていた。ところがある時、京より恵心僧都源信がこの地を訪れ、大蟹に引導を渡したのである。恵心僧都は蟹と向き合うと真言を唱え、さらに『往生要集』を説いた。すると蟹はこれまでの悪行を悔いたのか、涙を流し自らの甲羅を8つに割裂くと溶けて消えてしまったのである。

恵心僧都は8つに割れた甲羅を埋めて塚を造った。不思議なことに、塚を造ると、蟹の流した血が固まって8つの飴のようなものに変じた。恵心僧都はそれを竹の皮に包み、蟹の難がなくなったことを村人に示したのである。

蟹ヶ坂飴は現在でも作られており、道の駅そばで買い求めることが出来る。飴は平たい丸形をしており、蟹の甲羅を模したものとされる。また厄除けの効があるとも伝えられている。

また国道1号線から狭い道にそれ、奥に入っていくと、蟹を埋めたとされる蟹塚も現存する。

<用語解説>
◆浅井了意
1612-1691。仮名草紙作家であり僧侶でもある。数多くの仮名草紙を書く。『御伽婢子』は中国唐代の怪異譚を翻案したものや民間の怪談話を集めた作品で、後代の怪談集に影響を与えた。

◆恵心僧都源信
942-1017。良源(元三大師)の弟子として比叡山の横川で修行をする(そのため別名“横川の僧都”とされる)。『往生要集』を著し、現在に至るまでの地獄極楽のイメージを確立させ、後の浄土信仰の流れに大きな影響を与えたとされる。また同時代の『源氏物語』などにも“横川の僧都”という名で、彼をモデルとした人物が登場している。

アクセス:滋賀県甲賀市土山町南土山