平家終焉の地

【へいけしゅうえんのち】

平家終焉の地はほとんど国道8号線に面した場所にあると言ってもよいが、案内板がなければまず気付くことはないぐらいひっそりとしている。ここには、この地で斬首された平家の長者・平宗盛とその嫡男・平清宗の胴塚が残されている。

『平家物語』における宗盛の人物像は、まさに愚鈍そのもの。偉大な父・清盛、優秀な兄の重盛、弟の知盛の才能と対比させる目的もあるが、徹底的に無能ぶりを書き立てている。

源平最後の戦いである壇ノ浦の戦いにおいても、宗盛は終始狼狽えるだけで、結局入水もままならぬために家来に海に突き落とされている。しかも泳ぎが達者であったために、清宗と共に沈むことなく浮かんでいたところを源氏方に捕縛されてしまう。さらには平家の総大将として鎌倉に送られて源頼朝と対面するが、この場面でも出家したいなどと言い募って助命を請い願い、周囲の御家人から嘲罵を浴びることになる。

結局京都へ再護送されることとなった親子は、その途中、護送の責任者であった源義経の命によって篠原の地で斬首された。この処刑の際には、宗盛の幼い次男らの男児も斬首となっている。この平家の嫡流の処刑によって正統の血脈が途切れたため、この地が平家一門の終焉の地とされるのである。

この胴塚の真正面には小さな池があり、平宗盛首洗いの池とされている。また処刑がおこなわれて以降、この池に棲む蛙は鳴かなくなったため“蛙鳴かずの池”とも呼ばれるようになったという。

<用語解説>
◆平宗盛
1147-1185。平清盛の三男(正室・平時子の長男)。官位は従一位内大臣。嫡男の重盛の死後、平家の長者(棟梁)となる。清盛死後の平家凋落の象徴的存在となる。最後は自害しきれず捕虜となり、斬首された。『平家物語』『源平盛衰記』では傲慢で無能な人物として描かれており、当時の記録でも武家の棟梁としては器量の低い人物とみなされていた。しかし一方で家族に対する情愛の深さをうかがわせる逸話も残っている。

◆平清宗
1170-1185。平宗盛の嫡男。官位は正三位右衛門督。壇ノ浦の戦いにおいて父と共に捕らえられ、鎌倉へ護送。父が斬首された同日に草津で斬罪となる。

アクセス:滋賀県野洲市大篠原