長久寺 お菊の墓

【ちょうきゅうじ おきくのはか】

あのお菊さんの幽霊が出るという「皿屋敷」伝説は、全国で約50箇所ほどあるらしい。その中の1つが彦根に残されている。しかも、問題の“お皿”まで保存されているというから、驚きである。

彦根藩の譜代藩士である孕石(はらみいし)家の嫡男・政之進と、そこへ奉公する足軽の娘・お菊は相思相愛の仲であった。ところが、政之進には亡くなった親が取り決めた許嫁がいた。しかもお菊と政之進とでは身分が違いすぎる。そこで思い余ったお菊は、孕石家の家宝である、藩主拝領の10枚組の皿の1枚を割ってしまう。家宝の皿を割ることで、家か自分かどちらが大事なのかを確かめたかったのである。政之進は最初、お菊の過ちであると思い、その罪を許した。だが、割ったのが 自分の本心を知るための手段であるとわかった政之進は、残り9枚の皿を刀の柄で叩き割り、お菊を手討ちにした。そして自らも仏門に入り、お菊の冥福を祈ったという。

上の伝説を読んで、違和感を覚えた人もいるかもしれない。“お菊”という名前の女性と“皿を割る”という行動、そして“奉公していた女性を手討ちにする”ことだけが共通点で、後は全く通説とは違う話なのである。

この話であるが、実にディテールが詳細であり、却って本物の「皿屋敷」伝説の方が陳腐なものに感じるほどである。実際に彦根藩には孕石家が存在し(しかもかなり上級の家柄)、政之進の代で本家は断絶し、跡を継いだ分家が今も続いているらしい。また長久寺の 無縁墓の中にはお菊さんの墓が存在している(本来は長久寺の末寺にあったのだが、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、現在この地に安置されている。無縁墓の写真の中央部、1つだけ上部が尖った墓がお菊の墓と言われている)。そして何と言っても、この悲劇の元になった皿が存在するのである。

現存する皿は全部で6枚。話によると、残っているはずの3枚は展示会などで貸し出している最中になくなってしまったとのこと。由来としては、関ヶ原の合戦の時に藩主井伊直政が徳川家康から拝領し、大阪の陣で孕石家の当主が褒美で頂いたことになっている。時代的なものを考えると、相当立派な作りの皿であるこ とがわかる。

さらにこの寺には、お菊さんの供養のために、藩主正室以下、江戸屋敷にいた女性292名の名を連ねた寄進帳が存在する。かなり身分の低い者のために、これだけの人数の者が供養のための記帳をするのは、きわめて珍しい。言い換えれば、それだけの手厚い供養が必要な“事態”があった証拠ではないかと推測できる物件なのである。

<用語解説>
◆お菊の皿
長久寺に保管されているが、通常は非公開。予約をすれば拝観可とのこと。

アクセス:滋賀県彦根市後三条