捕鳥部万の墓/義犬塚

【ととりべのよろずのはか/ぎけんづか】

31代用明天皇の崩御から32代崇峻天皇の即位までの僅か3ヶ月の間に、日本史上重大な政変が起こっている。大陸より伝来した仏教を巡る対立を発端として、蘇我馬子を中心とする勢力が物部守屋の一族を滅ぼしたのである。この顛末は『日本書紀』にも当然記録されているが、同書にはこの物部氏滅亡の後に起こった“事件”についての詳細が書かれている。

物部守屋に仕える者の中に捕鳥部万という剛の者がいた。蘇我氏との戦に備えて難波にあった守屋の邸宅を守るために100人の兵を率いていたが、守屋が河内の本拠地で敗死したことを知るとすぐに兵団を解散させ、単独で妻の実家のある茅渟県(ちぬのあがた)の有真香邑(ありまかむら)へ移動した。朝廷はこの行動を万の反逆とみなし、数百の兵をもって討ち果たそうとした。

身の危険を知った万は山へ逃げ込み、竹に縄を掛けて揺することで兵達を攪乱し、矢を放って次々と倒していった。百発百中の矢に兵は怯み、その隙に万はさらに山奥へと逃げていくが、兵の放つ矢は全く当たらなかった。

しかし先回りして待ち構えた兵が放った矢が万の膝を射抜くと、万は倒れ込みながらもさらに矢を放ち、そして取り囲もうとする兵に向かって叫んだ。
「万は、天皇の楯となり、その武勇を示そうとした。しかし今、誰もそれを問い質すことはない。反対に窮地に追いやろうとしている。共に語る者は来るがよい。殺すのか、捕らえるのか、それを聞きたい」

兵達はその言葉に対して、さらに近付き矢を放った。万は飛んできた矢をことごとく薙ぎ払い、なお30人以上もの兵を殺したのである。しかし矢が尽きてしまうと、万は剣で弓を断ち切って捨て、さらにその剣も怪力で曲げて投げ捨てた。そして残った短刀で自らの頸を刺して自害してしまったのである。

この悲劇的な武人の死に関して、さらに不思議な後日譚が付け加えられている。

万を討ち取ったという報告を受けた朝廷は、その超人的な働きを怖れたためもあり、遺体を八つ裂きに斬ってそれぞれ8つの国で串刺しにして晒すように命じた。こうして遺体は8つの部分に切り刻まれたが、途端に雷鳴が轟き大雨が降り出したのである。その時、万の飼っていた白犬が遺体にそばに現れ、その周囲を吠えながら回ると、万の首を咥えて走り去っていった。白犬は古い塚に穴を掘ると首を埋め、その横に伏してしまった。あとは近寄る者があれば吠えて脅し、首が盗られないように見張り続けていたが、やがて日が経ち、そのまま飢えて死んでしまったのである。

この白犬の一連の不思議な行為について報告を聞いた朝廷は、感銘を受けた。そして後世に伝えるべく、万の一族に墓を造らせる命を下したのである。

岸和田市天神山町には、住宅地に囲まれるように3つの古墳が“天神山古墳群”として残されている。そのうち「天神山2号墳」と呼ばれる大山大塚古墳は、全体が公園となっている。この円墳が捕鳥部万の墓とされ、その頂上には墓石が置かれ、そのそばには三条実美による顕彰碑が建てられている。さらにこの古墳から少し離れた場所にある「天神山1号墳」が白犬の墓とされ、義犬塚古墳という名が付けられており、こちらにも立派な犬の墓が建てられている(この義犬塚古墳は私有地とのことで、現在は立ち入りが制限もしくは禁止されているらしい)。

<用語解説>
◆捕鳥部(鳥取部)
第11代垂仁天皇の第一皇子であった誉津別命は成人しても言葉を発することがなかったが、ある時、鵠(白鳥)を見て声を上げた。喜んだ天皇はその鳥を捕まえるよう命じ、天湯河板挙がそれを但馬(あるいは出雲)で捕らえた。その功績によって天湯河板挙に“鳥取造”の与え、鳥取部ができたとされる。物部氏の本拠である河内国には鳥取部の子孫が住んでおり、捕鳥部万もその一族に連なると推測される。

◆物部守屋
?-587。物部氏は朝廷において軍事を担当する有力豪族であり、大連の姓を与えられていた。朝廷の神祇を司る中臣勝海と共に廃仏派として蘇我馬子と対立、次第に宗教的な争いから政争に発展する。用明天皇の崩御後、守屋と馬子は互いに後継者を立てて争う。しかし炊屋姫(前代の敏達天皇の后)の詔を得た馬子によって追い落とされ、本拠に立て籠もって抗戦するが、最終的に射殺されてしまう。これによって物部氏は歴史上消滅する。

アクセス:大阪府岸和田市天神山町