桜井駅跡

【さくらいのえきあと】

和銅4年(711年)に京都から西に延びる西国街道の宿駅として設置されたとされる。しかしこの宿駅が伝承の世界に名を留めるのは、それから時代を経た延元元年(1336年)の出来事による。

後醍醐天皇の建武の新政に反旗を翻した足利尊氏は、一時的に九州にまで追い詰められるが、そこから一気に反転。10万を超える兵力で京都へ向かっていた。それを迎え撃とうとしたのが新田義貞であり、楠木正成であった。

特に楠木正成は、尊氏の攻勢に対して味方の主力である新田義貞では打ち勝てないと見て、様々な献策をおこなうがことごとく拒絶される。遂に正成は討ち死にを覚悟して、新田軍が陣を敷く兵庫へ兵を率いていった。

山城国から摂津国に入ったところで正成は長男の正行を呼び、これから軍を離れて故郷の河内へ帰るように命じた。まだ11歳であった正行であったが、共に討ち死にを望んで一旦は父の命を拒んだ。しかし正成は「自分の討ち死にした後のことを慮って、帰すのである。帝のために命を惜しみ、生き長らえて敵を倒せ」と諭し、形見の短刀を渡したのであった。

楠木正成と正行父子の別れは『太平記』の中でも屈指の場面であり、明治時代以降は、その皇室に対する忠節と親子の情愛を示す逸話として修身(道徳)の教材として大いに使用された。そのため明治天皇御製の碑をはじめ、明治の元勲の手による碑が複数存在する。

<用語解説>
◆楠木正成
1294?-1336。河内国の土豪。後醍醐天皇が倒幕を目指した際に活躍。千早・赤坂城での徹底抗戦により、鎌倉幕府滅亡の端緒を開いた。足利尊氏が天皇に反旗を翻した後も一貫して後醍醐天皇側につくが、湊川の戦いで討死。

◆楠木正行
1326?-1348。楠木正成の嫡男。正成を大楠公と称するのに対して、小楠公と称される。父の遺命に従い、足利尊氏の勢力と終始戦い続ける。緒戦で勝利するも、四條畷の戦いで高師直に敗れ、弟の正時と共に自害する。

アクセス:大阪府三島郡島本町桜井