鵺塚

【ぬえづか】

仁平3年(1153年)、夜ごと東の空より黒雲が湧き上がり御所を覆い尽くすと、そこから不気味な鳴き声が聞こえてきた。近衛天皇はその声に怯え、源頼政に退治を命じた。そして矢を射たところ落ちてきたのが、頭は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇という怪物であった。これが世に言う「鵺」である。

殺された鵺の死骸は丸木舟(うつろ舟)に乗せられて川に流されたと記されており、その辿り着いた先が都島の鵺塚であるという。大阪の名所を記した『蘆分船』によると、滓上江村(かすがえむら)の母恩寺のそばに塚があり、頼政が射抜いた鵺をうつろ舟に押し込めて淀川に流した。すると浮洲に引っかかって止まり、そのまま死骸は朽ちたとされる。また『摂津名所図会』では、鵺の死骸を埋めたのが塚であるとしている。

その後、塚は明治3年(1870年)に大阪府が改修し、現在地に置かれた。そして昭和32年(1957年)には地元住民により祠が建てられ、現在に至っている。お供え物や清掃道具などからして、地元で大切に保護されているようである。

そして特筆すべきは、案内にある“大阪港紋章”である。この大阪港紋章のサポーター(盾の部分を支える動物など)として採用されているのが、鵺なのである(ただし胴は獅子となっている)。昭和60年(1985年)制定のものであるが、大阪港ゆかりのモンスター(このサポーター部分は、西洋でも幻獣が採用されることが多い)ということで公式に認知されていると考えても良いのかもしれない。

<用語解説>
◆源頼政
1104-1180。源氏として破格の従三位に叙せられたため“源三位”とも言われる。源氏ではあるが、平清盛の信を得て平氏政権下においても厚遇され た。しかし以仁王の打倒平家の挙兵に加わり、宇治平等院で敗死。鵺退治については、先祖である源義家が弓で魔物を退散させた故事にちなんで、一門で武名高 い頼政が指名されたことになっている。

◆頼政の鵺退治
鵺塚の案内板にある「仁平3年、近衛天皇の御代」を採用しているが、他にも高倉天皇の御代であったともされる。

◆『蘆分船』
延宝3年(1675年)刊行。大阪の名所を案内した書籍としては最も古いものとされる。

◆『摂津名所図会』
寛政8年(1796年)刊行。名所図会の先駆けとなった『都名所図会』の吉野屋為八が出版に携わっている。

◆大阪港紋章
昭和60年(1985年)制作。紋章学に詳しい森護(1923-2000)が監修。港湾都市間で友好のしるしとしてレリーフを交換する慣習があったために作成された。西洋紋章学のルールに完全に従って作られたものとして評価が高い。上部には大阪市の市章である“澪標”。紋章部分には大阪港のマーク、銀杏の葉、日本の古代船(遣唐使船か?)をあしらっている。サポーターについては、計画段階で河童や天狗も検討されていたとされる。

アクセス:大阪府大阪市都島区都島本通3丁目