備中高松城趾

【びっちゅうたかまつじょうし】

備中高松城と言えば、羽柴秀吉による水攻め、そして本能寺の変の際に毛利方と行われた和戦駆け引きの場として名高い場所である。現在は天守閣こそ再建されてはいないが、緑地公園化され、かなり整備された状態で保存されている。そしてその一角に公園に は不釣り合いな供養塔が建てられている。それがこの城の最後の城主で、秀吉との講話の折に見事な散り際を見せた清水宗治の首塚なのである。

この公園周辺には清水宗治の自刃にまつわる碑がいくつかある。公園近くの民家の庭先に“胴塚”と称される碑もある。また公園から少し離れた場所には“清水宗治自刃の地”ということで供養塔が建てられている。そして自刃の際に、宗治の従者二人が「先に三途の川でお待ち申します」と言って刺し違えて殉死した場所が残されている。“ごうやぶ”と呼ばれ、現在でもぽつねんと目印のためか、一本の木が立っている。往時を偲ぶ物は少ないが、名将への崇敬は決してすたれていないのである。

<用語解説>
◆備中高松城の戦い
天正10年(1582年)、織田方の羽柴秀吉と毛利方の清水宗治との戦い。湿地帯にある高松城を攻めるため、羽柴軍が堤防を築き、水攻めをおこなったことで有名である。城は、水の中に孤立し、援軍や物資の補給の見込みがないために、和睦を決意。城将である清水宗治が切腹することで、城兵の助命を願い出る。一方の羽柴側は、本能寺の変での主君信長の死を知り講和を受け入れ、清水宗治の切腹を見届けると、中国大返しをおこなった。

◆清水宗治
1537-1582。はじめは備中の三村氏に仕えるが、後に毛利氏に仕える。備中高松城主として織田方の羽柴秀吉と対峙、水攻めにより和睦するが、城兵の助命のために自刃する。その後、秀吉から「武士の鑑」と賞賛された。

アクセス:岡山県岡山市北区高松