猫又稲荷

【ねこまたいなり】

正式名称は土橋(つちはし)稲荷神社。猫又稲荷と称するのは、次のような伝説が残されているためである。

天和年間(1681-1684)の頃、重倉山というところに化け物が住み着き、里に下りてきては家畜ばかりか人も襲い危害を加えていた。そこで人々は高田郡代所へ訴え出て、岡当治郎兵衛が役人を引き連れて退治に向かった。中ノ俣という場所で化け物と遭遇して戦うが、矢も鉄砲の弾も撥ね返すような身体で、全く歯が立たない。そこへ中ノ俣に住む吉十郎という男が退治を申し出てきた。単身で挑んだ吉十郎は長い死闘の末、遂に化け物を仕留めたのである。しかし自身も深手を負い、息絶えてしまったのである。

退治された化け物は郡代所の前に置かれ、人々が見物に来たが、子牛ほどの大きさの猫であった。この後、化け猫の死骸は埋められて、その上に稲荷神社が建てられた。それが土橋稲荷であり、猫又稲荷の別名の由来である。ただし現在は猫又にまつわる痕跡は何一つ残されていない。

<用語解説>
◆高田郡代所
猫又稲荷のある地域は高田藩の領地であり、石高の差があるが、親藩・譜代の大名が入れ替わり領有した。しかし天和年間を含む数年間だけは幕府領となり、近在の藩が1年交替で管理する状態が続いた。退治を主導したのが高田郡代所であるのは、そのためである。

アクセス:新潟県上越市大町