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雲仙地獄
(うんぜんじごく)
長崎県雲仙市小浜町雲仙
 雲仙は、大宝元年(701年)に行基によって開かれたとされるが、現在の温泉保養地として成立するのは寛文12年(1672年)に島原藩主の松平忠房が加藤善左衛門を湯守役に任じてからとされる。しかし温泉と共に有名なのは、雲仙地獄でのキリシタン殉教である。
 雲仙でキリシタン弾圧の拷問が始まったのは寛永4年(1627年)である。その年に殉教した者は26名とされる。この時の島原藩主は松倉重政であり、幕府への過剰な忠誠を示すために苛政をおこなっていた。キリシタン弾圧もそのような状況で繰り広げられた。
 最初の殉教者で最も有名な人物はパウロ内堀作右衛門である。一緒に捕らえられた3人の息子(一番年下の子は5歳とされる)は、両手の3本ずつの指を切り落とされる拷問の末に海に沈められて殉教。作右衛門も同じだけ指を切り落とされ、さらに額に“切支丹”の3文字の焼き印を受ける。しかしそれでもなお棄教しないため、他の15名と共に雲仙地獄に送り込まれた。そして作右衛門らは両足に縄を掛けて逆さ吊りにされると、湯壺に浸けては引き出すことを数回続け殉教したのである。
 その3ヶ月後にはヨアキム峰助太夫ら10名が殉教する。湯壺に浸けるとすぐに死ぬので、役人は衣服を脱がせ柄杓で熱湯を掛けて拷問を加えた。助太夫は熱湯を掛けられても微動だにしなかったため、全身を切り刻まれそこに熱湯を注ぎ込まれた。しかし6時間の拷問に対して誰一人棄教する者はなく、最後は絶命するまで湯を掛け続けて、遺体は湯壺の中に沈めたのである。
 この残酷な拷問の方法は、松倉重政から勧められた長崎奉行の竹中重義も採用した。長崎で捕らえられたキリシタンは雲仙地獄へ送り込まれ、さまざまな拷問が科せられた。しかし棄教する者はほとんどなく、再び長崎に送り返されてその地で処刑されたのである。結局、雲仙地獄でのキリシタンへの拷問は寛永8年(1631年)の記録を最後に中絶する。
 雲仙地獄には、この地で殉教した33名を称える記念碑がある。そして平成19年(2007年)に雲仙地獄で殉教した29名(パウロ内堀の息子3名も含む)はローマ教皇庁より福者と認定されている。雲仙は今もなお、清七地獄やお糸地獄などの約30ほどの地獄が白煙を上げている。
<用語解説>
加藤善左衛門
島原の乱の直後に島原藩主となった高力忠房の家臣。高力氏は承応2年(1653年)に雲仙に共同浴場「延暦湯」を開き、善左衛門がその管理者となる。高力家は改易となるが、善左衛門は島原に残り、高力家の後に島原を治めた松平忠房に仕える。雲仙温泉の湯守役となった後、元禄8年(1695年)に湯治客向けの旅館の経営を始める。現在の「湯元ホテル」である(現在も加藤家が経営)。

松倉重政
1574-1630。大和五条藩主から島原藩主となる。島原移封後は島原城建築をはじめ、石高を実質の倍の数値で報告して年貢取り立てを苛烈におこない、また江戸城改修の請負の際にも分不相応な費用負担をおこなうなど、領民に対して苛政を敷いた。キリシタン弾圧もはじめは緩かったが、将軍より直接指弾されたため過酷な拷問を採用したとされる。最後はキリシタン撲滅のために呂宋(フィリピン)攻略を進言。しかし先遣隊派兵の直前に急死する。

竹中重義
?-1634。豊後府内(大分)藩主。寛永6年(1529年)に長崎奉行に就くと、キリシタン弾圧に心血を注ぐ。最も過酷な拷問と呼ばれた「穴吊り」を考案。雲仙地獄での拷問を開始し、そこで初めての「絵踏」を実施した。しかし長崎での密貿易を訴えられたため、奉行職を罷免・切腹を命じられる。また府内藩も改易となる。

清七地獄
キリシタンであった清七という男が処刑された時に噴出したため名付けられた地獄。

お糸地獄
島原城下で、密通した挙げ句夫を殺したお糸とという女が処刑された頃に噴出したため名付けられた地獄。
<関連伝承地>

雲仙地獄

雲仙地獄

雲仙キリシタン殉教碑


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