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日本二十六聖人殉教地
(にほんにじゅうろくせいじんじゅんきょうち)
長崎県長崎市西坂町(西坂公園内)
 豊臣秀吉がキリスト教を禁じたのは天正15年(1587年)、まだ天下統一を果たす前であった。しかしこの時出された“バテレン追放令”は、実質、キリスト教への強制的改宗や公然とした布教活動を禁ずるものであって、むしろ個人の信教の自由をおおむね保証する内容であった。ところがその約10年後、秀吉はキリシタンに対して苛烈な対応を取る。それが日本最初の殉教事件である「日本二十六聖人の殉教」である。
 発端は、土佐に漂着したスペイン船・サン=フェリペ号であった。この船の積み荷を没収したことから始まったいざこざが直接の引き金となって、秀吉は突如キリシタン弾圧を命じたのである。その弾圧の矛先は、京都や大阪で教会を設立して公然と布教活動を行っていたフランシスコ会の宣教師とその協力者であった。そして捕らえられたのは、6名の外国人司祭と修道士、日本人信徒18名であった。1月3日(グレゴリオ暦、以下同)、彼らは第一の処罰として一条戻り橋で左の耳たぶをそぎ落とされた。さらに京都・大阪・堺で市中引き回しとされ、10日になって、処刑をおこなうために約800km離れた長崎まで徒歩で連行されることとなったのである。
 この死への旅路に加わった者の事情はさまざまである。例えば、マチアスと呼ばれた信者は、本来捕縛されるはずの者と同じ受洗名であることから自ら縄を受けて加わり、本名も年齢も伝わっていない。また最年長のディエゴ喜斎、パウロ三木、ヨハネ五島の3名はイエズス会の信者であったが、自ら捕縛するように訴え出て名を連ねた。さらにこの3名の世話をするように申しつけられ随行したペトロ助四郎は道中で受刑者に加わり、同じく一行の後を追って合流したフランシスコ吉もいつの間にか受刑者として処刑されることを望んで許された。こうして長崎に着く時には26名となった一行は、慶長元年(1597年)2月5日に処刑が決まったのである。
 処刑の場所は、ポルトガル人(あるいは殉教する司祭ら)の要望によって、イエスが処刑された場所に似ているという理由で、西坂の丘にある麦畑となった。彼らは全く死を怖れなかった。むしろ殉教することを喜びとしている様子であった。最年少12歳のルドビコ茨木は、刑場に着くと自分の磔にするための十字架がどこにあるかを役人に尋ね、一番小さなそれに走り寄るとそれに口づけをした。また次に年少だった13歳のアントニオは十字架にかけられた直後に、両親が改宗するように懇願するも、逆に入信することを勧めた。そして並んで十字架にかけられた二人の少年は、高らかに賛美歌を歌い始めたのである。さらにその歌声が続く中、パウロ三木は最後の説経を始めた。「私は何の罪も犯したわけではございません。ただイエス・キリストの福音を述べ伝え、その教えを広めたという理由だけで殺されるのです。……ただ私の切に願いまするのは、太閤様をはじめ全ての日本人がイエス・キリストを信じて救いを受け、キリシタンとおなりになることでございます」。4000人を超える民衆が見守る中、こうして26名は殉教したのである。
 この事件については、取り締まる側もかなり同情的であったとされる。鼻と両耳を切り落とすよう命じた秀吉に対して、京都奉行であった石田三成は最小限度の処罰として左耳たぶだけをそぎ落とすよう命じた。また処刑の総責任者であった寺沢半三郎は、最初の面会の際に、ルドビコ茨木に対してキリスト教を棄てれば養子として迎える旨を打診している。そして処刑の一部始終を検分した後、憔悴して涙を流してその場を立ち去ったとされる。
 日本での最初の殉教者となった26名は、その後1627年にカトリック教会より列福を受け、さらに1862年に列聖を受けて日本人関係で初の聖人と認められた。この聖人へ列せられて100年後の昭和37年(1962年)、処刑地である西坂の丘に公園が設けられ、記念碑が造られた。正面には26名の昇天の姿が刻まれ、その裏には京都から長崎までの彼らの祈りの道のりを示すレリーフがある。
<用語解説>
二十六聖人の氏名
記念碑に並べられた順に右から
フランシスコ吉、コスメ竹屋、ペトロ助四郎、ミゲル小崎、ディエゴ喜斎、パウロ三木、パウロ茨木、ヨハネ五島、ルドビコ茨木、アントニオ、バウチスタ神父、マルチノ神父、フェリペ修道士、ガルシア修道士、ブランコ修道士、ミゲル修道士、マチアス、レオン烏丸、ペントウラ、トマス小崎、ヨアキム榊原、フランシスコ医師、トマスダンキ、ヨハネ絹屋、ガブリエル、パウロ鈴木

サン=フェリペ号事件
文禄5年(1596年)にスペイン船のサン=フェリペ号が土佐に漂着する。船員が船体修理と身柄保全を秀吉に申し出たところ、奉行の増田長盛が現地に派遣され、聴取がおこなわれた。その際に「スペインは、宣教師を布教と領土侵略のために派遣している」旨の発言が、船員から出たとされる。この報がもたらされると秀吉は激怒、ただちに禁教令が出され、二十六聖人の殉教に繋がったとされる。
ただし、この宣教師に関する発言があったかどうかの確証はなく、京都にいた“イエズス会”の宣教師から聞いた“フランシスコ会”に対する非難中傷に基づいた判断であった可能性もあるとされる。また最終的に日本側が積み荷を全て没収したことから、金品目当てのでっち上げとする説もある(船自体は修理をし、船員はマニラに帰還している)。

イエズス会とフランシスコ会
天文18年(1549年)に日本で最初に布教したフランシスコ・ザビエルはカトリック教会のイエズス会に属しており、長年日本での布教を独占してきた。それに対して、フランシスコ会は文禄2年(1593年)よりバウチスタ神父が布教を開始した。イエズス会は天正15年の禁教令に対して布教の自粛していたが、フランシスコ会は京都や大阪でさかんに布教をおこない、両者の関係は相当悪化していたとされる。

寺沢半三郎
生没年不詳。唐津の領主で長崎奉行を兼任していた寺沢広高の実弟。2月1日から処刑当日まで殉教者の世話をし、そして処刑の責を全うしたと記録される。パウロ三木とは旧知の間柄で、彼を通しての要望を聞き届けようと試みるなど、上記のルドビコとのやりとりも併せて、キリシタンに同情的で理解を持って接していたと考えられる。ただしこの事件以外に関する事績は不明である。
<関連伝承地>

昇天のいのり

長崎への道(レリーフの裏面)


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