板垣神社

【いたがきじんじゃ】

戦国最強の武将と言われる武田信玄(晴信)であるが、若き領主時代に手痛い敗北を二度喫している。いずれも北信濃に勢力を持っていた村上義清との戦いである。特に最初の敗北となる上田原の戦いでは筆頭格の重臣である板垣信方・甘利虎泰の2名を一挙に失うなど、人的にも大きな損失があった。

上田原の戦いは天文17年(1548年)に起こった。その前年に武田勢は信濃の佐久郡を支配下に治め、村上勢と境界を接するようになったため、衝突は時間の問題であった。先に行動を開始したのは晴信である。軍勢を率いて上田原へ進軍。対する村上義清も兵を出して対陣し、合戦が始まった。

最初に優勢に立ったのは、武田勢であった。先陣を任された板垣信方は敵陣深くまで進撃し、敵兵の首級を約150も挙げる活躍を見せた。ところが、ここで板垣は不可解な行動を取る。敵中深くまで入り込んでいるにもかかわらず、その場で首実検を始めたのである。この軽率とも言える状況を村上勢が見逃すはずもなく、板垣の陣を急襲。虚を突かれた格好となった板垣は、馬に乗ることも出来ないまま、この場で討死するのである。

板垣信方は晴信の傅役であり、その家督相続の際のクーデター(父である武田信虎の追放)において尽力し、筆頭格の宿老となったとされる。そして晴信の信濃侵略の先鋒として活躍する。諏訪攻略後には郡代として入部して政情の安定を図り、晴信の信濃侵攻の際には諏訪衆を率いて陣に駆けつけたという。

板垣が討死したとされる場所に、板垣神社はある。神社と名が付くが、実際には覆屋の中に五輪塔が一基あるだけである。これが板垣の墓とされている。そして愛煙家であったという伝承が残る故か、墓の前には煙草が供えられていることが多い。

<用語解説>
◆板垣信方
1489?-1548。駿河守。武田二十四将の一人。信虎・晴信(信玄)初期の時代の四天王。上田原の戦いで討死。討死に至る経緯については諸説あり、慢心や驕りがあったため、あるいは諫死に近い説などがある。

◆村上義清
1501-1573。村上氏は北信濃の国人領主として鎌倉時代より続く。猛将として知られ、武田信玄を二度までも破っている。しかし武田氏の信濃侵攻により離反者が続出、最終的には越後の上杉謙信を頼って領国を失う。村上氏の滅亡によって、武田・上杉の直接対決が始まる。

◆上田原の戦い
天文17年(1548年)。武田・村上氏による戦い。武田氏は板垣・甘利の両宿老を失い、信玄自身も手傷を負ったとされる。信玄は戦いの後も陣を保つが、最終的に母親の説得により陣を引き払う。信玄最初の敗戦とされる。

アクセス:長野県上田市下之条