蓮華寺 絵島の墓

【れんげじ えじまのはか】

蓮華寺は高遠藩ゆかりの寺院である。創建は正平15年(1360年)だが、高遠藩初代の保科正光(会津藩祖・保科正之の養父)が寺領を与えて高遠城下に寺院建立。鳥居忠春が藩主の慶安4年(1651年)に現在地に移転をした。その裏山にあたる場所に一基の墓がある。それが絵島の墓である。

絵島は、7代将軍家継の生母・月光院付きの御年寄として、大奥で絶大な権力を握っていた人物であった。しかし大奥を揺るがす一大事件によってその身分を剥奪され、罪人として生涯を終えることになる。その終焉の地が高遠であった。

正徳4年(1714年)、前将軍・家宣の墓参の名代として寛永寺と増上寺を訪れた絵島は、その帰途の最中に木挽町の山村座に立ち寄った。ところが何故か滞在が長引き、江戸城に戻った時には既に閉門の刻限を過ぎていた。この一件で咎めを受けたのであるが、その山村座に立ち寄った目的が、役者の生島新五郎との密会であるとの疑いを掛けられてしまったのである。結局、絵島本人の自白はないまま、死罪を減じて遠島、さらに月光院の嘆願によって高遠へ配流となったのである。

高遠に流された後の絵島の生活は過酷なものであった。一軒家の八畳間をあてがわれたが、常時役人が隣室で監視し、食事の差し入れ以外の接触は全て遮断された監禁生活であった。現在、絵島の居宅は設計図に従って復元されているが、厳重な監視態勢は勿論、外部の人間が入り込むことも出来ないような造りになっている。そのような中で、絵島は27年間生き長らえたのである。

ただ後年、高遠藩より赦免の願いが出され、居宅の外にもわずかに出られるようになったとされ、大奥時代より信仰していた日蓮宗の寺院である蓮華寺にも足を運ぶようになったという。その縁で絵島の死後に墓が設けられたのである。

<用語解説>
◆絵島生島事件
正徳4年(1714年)に起こった、大奥の醜聞事件。密会をしたとされる絵島は高遠に配流、生島新五郎は三宅島に遠島となった。また密会の舞台となった山村座は廃止され、座元も遠島。また絵島の兄である旗本の白井平右衛門は切腹ではなく斬首、絵島と生島の仲立ちをしたとされる商人らも処罰された。
この事件の背景には、大奥における主導権争い(7代将軍家継の生母・月光院に対して、6代将軍家宣正室・天英院側が追い落としを図って仕掛けたとの説)、大奥の綱紀粛正を断行するための口実、等の諸説がある。いずれにせよ、二人が密会したかの確認よりも大きな目的があったと考えられている。

◆生島新五郎
1671-1743。山村座の歌舞伎役者であり、評判の人気役者であった。三宅島に遠島となるが、絵島が亡くなった翌年に赦免される。その次の年に死去。

アクセス:長野県伊那市高遠町長藤