長千代丸祠

【ながちよまるほこら】

西都市の市街地から西都原古墳群へ向かう途中に、稚児ヶ池という名の溜池がある。現在でも農業用水として使用されているが、完成時期は古く正長元年(1428年)とされている。そしてこの完成にまつわる伝説が残されている。

当時この地を治めていたのは、伊東氏の家臣である壱岐加賀守義道。水の利が悪いため“鶴の池”と呼ばれていた池を築堤して、大きな溜池を造った。ところが大雨が降るたびに堤が決壊する。そこで神社で占うと「かつて鶴の池には白黒2匹の大蛇の夫婦が棲み着いていたが、悪事ばかり行うために神が懲らしめて池の底に埋めてしまった。その祟りのせいで池が決壊する。人柱を立てるべし」という神託が下る。

ところが村人は誰を人柱にするかで揉めだした。そこへ通りがかったのが、法元(ほうが)家の三男の長千代丸であった。長千代丸は人柱の話を聞くと、「明日の朝早くにここを通る、浅黄の着物の者を捕らえて人柱にするとよい」と言った。その言葉の明確さに、村人は神託同様信じることにして翌朝を待ったのである。

そして翌朝早く、道端に隠れた者たちは浅黄の着物を着た人影が近付いてくるのを見つけると、ただちに捕らえてその身元を確かめた。それは、昨日人柱の決め手を伝えた当の長千代丸本人であった。驚き狼狽する村人を前に、長千代丸は自ら志願して人柱になることを告げると、池の端に正座して見事に十文字に腹を切って14歳の命を終えたのである。正長元年2月27日のことであるという。

長千代丸の遺骸は池の底8尺にところに埋められ、人柱となった。それからは堤は決して崩れることはなかったとされる。そして池の名も、長千代丸にちなみ“稚児殿池(ちごんどいけ)”と呼ばれるうになった。さらに池のほとりに長千代丸を祀る祠が建てられ、顕彰の板碑もある。そこには長千代丸の辞世の句が添えられている。

“梅の花 散るを惜しむな 鶯の 経は実となる 南無や法華経”

アクセス:宮崎県西都市三宅