お鶴明神

【おつるみょうじん】

北上川に沿って一関街道が走っているが、その堤防の緑地にぽつんと小さな赤鳥居が立っている。これがお鶴明神と呼ばれる祠である。

登米の町は、仙台藩の支藩として栄えた町である。初代領主・白石宗直が城下を整え、河川の整備をおこなうことで、2万石の石高を生み出した。特に有名な事業は、北上川の治水である。3年を掛けて約7kmにわたる堤防を築いたが、これは宗直の官職名から“相模土手”と呼ばれている。

ところがこの堤防も何度か決壊してしまったため、息子の宗勝(宗貞)がさらに改修を重ねて、決壊の被害を絶ったとされる。そしてこの頃にあった伝承として、お鶴明神にまつわる話が残されている。

お鶴は、岩手の南部地方の生まれの娘で、彦総長者の家で下働きをしていたとされる。この堤防工事では、人夫に昼の弁当を配る世話をしていたのであるが、決壊を防ぐために人柱が必要であるという話が持ち上がった時に白羽の矢を立てられて、無理矢理生き埋めにされてしまったという。これ以降堤防は決壊することなく、今に至っている。

このお鶴明神は、人柱となったお鶴を哀れんだ土地の者が建てたものである。簡素なものではあるが、現在でも毎年、講による供養がおこなわれている。また祠のそばには“お鶴の涙池”と呼ばれる小池があったが、これも平成になってから復元されている。

<用語解説>
◆白石宗直
1577-1629。仙台藩伊達家の家臣。数々の武功により、元和2年(1616年)に伊達姓を与えられて一門となる。登米伊達氏の初代。なお息子の宗勝(宗貞)も治水事業に積極的で“若狭土手”を造っている。

アクセス:宮城県登米市中田町浅水