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鍵屋の辻
(かぎやのつじ)
三重県伊賀市小田町
 寛永11年(1634年)11月7日早朝、伊勢街道と奈良街道の交わる鍵屋の辻で、後に“日本三大仇討ち”と言われる鍵屋の辻の決闘が起こった。討ったのは渡辺数馬と助太刀の荒木又右衛門など、討たれたのは河合又五郎らである。
 講談や歌舞伎の世界では「荒木又右衛門の三十六人斬り」として有名な事件であるが、実際は又五郎側の人員は11名、又右衛門が斬ったのも2名のみである。ただ河合甚左衛門(大和郡山藩剣術指南役:又右衛門の上役、又五郎の叔父)と桜井半兵衛(尼崎藩槍術指南役、又五郎の妹婿)という助太刀の武芸者を倒している。また仇討ちの中心である、数馬と又五郎の果たし合いは、お互いが真剣での勝負に不慣れであったために、決着が付くまでにおよそ5時間かかったとされる(数馬の剣が又五郎の腕を少し切ったところで、又右衛門がとどめを刺す)。
 現在の鍵屋の辻は史跡公園となっており、茶店が復元されていたり、資料館がある(有料)。また資料館の庭には河合又五郎首洗いの池がある。
<用語解説>
日本三大仇討ち
「鍵屋の辻の決闘」の他には「曽我兄弟の仇討ち」と「赤穂浪士の討ち入り」となる。

鍵屋の辻の決闘の顛末
岡山藩主・池田忠雄の寵童であった渡辺源太夫(数馬の弟)に思いを寄せた河合又五郎が拒絶にあったために、源太夫を斬殺して出奔。江戸に逃げた又五郎は旗本安藤家にかくまわれ、返還を求めた池田家と対立、直参旗本と外様大名を巻き込む騒動となる。その中で藩主・忠雄が急死。その間際に仇討ちを厳命したために数馬は藩を離れて、姉婿の荒木又右衛門を頼る。その後、大和郡山に身を隠していた又五郎は、江戸に戻るべく大勢の護衛に囲まれて上京。そして鍵屋の辻で待ち伏せていた数馬らに討ち果たされる。
旗本安藤家と池田家は因縁の家柄であり、長久手の戦いで忠雄の祖父・恒興と伯父・元助を討ったのが、安藤宗家の直次である。
自分より目下の身内の仇討ちをするのは異例であるが、藩主・忠雄の遺命の性格が強く、なかば上意討ちの感もある。数馬は仇討ち後、池田家(鳥取藩)に帰参している。

荒木又右衛門
1599-1638。伊賀出身。父親が渡辺数馬の父とほぼ同時期に池田家に仕えたため、懇意の間柄となる。数馬の姉を嫁としており、二人は義兄弟となる。仇討ち事件が起こった当時は、大和郡山藩の剣術指南役(上役に鍵屋の辻で戦った河合甚左衛門がいる)。決闘後は鍵屋の辻を領有していた津藩の藤堂家の客分として4年間あった。そして鳥取藩の池田家に請われて鳥取へ赴くが、そのわずか16日後に死去したとされる。
急死については、河合家の復讐を避けるため身を隠した、あるいは死去したことにして郷里へ戻ったなどの諸説もある。
<関連伝承地>

鍵屋の辻

河合又五郎首洗い池

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