皺榎 浦嶋子住居跡

【しわえのき うらしまこじゅうきょあと】

浦島太郎といえば、日本の昔話の中でも最もポピュラーなキャラクターの一人である。 だが浦島太郎は、実在したとされる人物が明確に投影されているのである。それが『丹後国風土記』に登場する【浦嶋子(うら しまこ)】という人物である。

網野町には、この浦嶋子が実在していたとされる跡が残されている。海岸線から少し奥まったところにある“皺榎”と呼ば れる、一風変わった名で呼ばれる不思議な木がある。そしてその木のすぐそばにはかなり広い空き地があり、そこに浦嶋子の住居があったと言われている。

実際の浦嶋子も浦島太郎同様、乙姫のもとに通ううちに数百年が経ち、もはや誰一人として自分を知る者がないことを悲観して、例の玉手箱を開けてしまう。 そして老いさらばえた自分の姿を見て嘆き、できてしまった皺をちぎっては、家のそばにあった榎の木に投げつけた。そのため、この榎の木の幹には深く刻まれた無数の皺のような跡が残っているのだという。

この土地に隣接するようにあるのが“古墳”。しかもこの丹後地方でも有数の規模を持ち、かなりの量の出土品があるという。国家が編纂した『風土記』の中に記載されるほどの人物である。高位の人物ではないにせよ、地元ではかなりの有力者の一族に属していたことは間違いない。そのような浦嶋子の存在とこの古墳とが妙にだぶるのである。

※下の写真は平成16年(2004年)5月のもの。この年の10月の台風で、幹から折れてしまったらしい。

<用語解説>
◆『丹後国風土記』
完本ではないが、浦島伝承をはじめとする文書が残されている。風土記編纂の命が出されたのが713年であるので、8世紀中頃にはまとめられたものであると考えられる。

◆銚子山古墳
全長198mの、日本海側最大の前方後円墳。5世紀前半に作られたものと推定される。大和政権初期にあったと推測される“丹後王国”の支配者の墳墓であるとも、四道将軍の一人である丹波道主命の墓とも言われている。

アクセス:京都府京丹後市網野町網野