田原坂

【たばるざか】

田原坂は明治10年(1877年)に起きた西南戦争最大の激戦地である。熊本城攻略に失敗した薩摩軍は、政府軍の熊本救援を防ぐために北部の田原坂を防衛戦として布陣する。そして政府軍もその約300mほどの距離を突破すべく、3月4日より20日までの17日間死闘を繰り広げた。

政府軍がこの攻防で消費した弾丸が1日当たり32万発と言われ、日露戦争最大の旅順攻略時の30万発を上回る。そのために「かち合い弾」と呼ばれる、空中で弾丸同士がぶつかって潰れた状態のものが多数残されている。またこの期間の政府軍の戦死者数は、7ヶ月の戦いでの戦死者の4分の1を越えるものである。いかにこの戦いが激しいものであったかを示すものである。

現在、田原坂は公園となり、資料館が存在する(弾痕の残る蔵があるが、これは当時のものではなく、復元されたものである)。そして少し離れた場所には、薩軍の墓地と官軍の墓地がひっそりとある。

<用語解説>
◆西南戦争
1877年2月~9月に起こった日本史上最後の内戦。鹿児島で蜂起した西郷隆盛率いる薩軍は北上して熊本城を囲むが、攻略に失敗。上記の田原坂の戦いで政府軍に敗れ、その後急速に勢力を失う。その後宮崎などを転戦するものの、最後は鹿児島の城山にて西郷以下が討ち死にし、戦いを終える。

◆防衛上の田原坂
熊本城を築城した加藤清正が、その北の守りとして田原坂を作り上げている。清正は、周囲よりも低くなるように道を掘り(道の両側から狙撃がしやすくなる)、さらに道も曲がりくねって前が見通せないように作っている。これによって守りやすく攻めにくい要衝となっている。

◆田原坂資料館
公園内にある。田原坂の戦いのさまざまな資料を展示している。「かち合い弾」もある。大人210円。

アクセス:熊本県熊本市植木町豊岡