石丸神社

【いしまるじんじゃ】

土佐の長宗我部氏は一時四国統一を果たしたが、その軍制の基盤となっていたのが“一領具足”である。普段は領内で農作に従事しているが、領主の命によって即時武装して戦に参加する“一領具足”と呼ばれる半農半兵身分の兵力が、長宗我部氏の躍進を支えていたのである。

ところが慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、領主の長宗我部盛親は西軍に属したため、改易となる。そして土佐一国は山内一豊の所領となり、長宗我部氏の居城であった浦戸城は接収されることとなった。しかしこの新しい領主を迎える段になって、強硬に異を唱えた者たちが現れる。それが“一領具足”達であった。彼らは長宗我部旧家臣らと共に浦戸城に立て籠もると、土佐国の一部(一説では半国)を長宗我部氏に与えるように要求したのである。「浦戸一揆」と呼ばれる騒動である。

“一領具足”達が長宗我部氏復活を要求した理由はいくつかあるが、彼らが半農半兵という身分であった故に、いわゆる“兵農分離”を推し進めてきた旧豊臣家臣(当然、関ヶ原の勝者である徳川氏も含む)が領主となると、彼らは武士の地位を追われることになるためだろうとされている。実際、強硬な態度である“一領具足”達と、事態の収拾を図ろうとする長宗我部旧家臣との間に、やがて大きな溝が出来てくる。そしてその溝が一気に悲劇となっていく。

同年12月1日、旧長宗我部家臣達は独断で徳川氏の上使を浦戸城に引き入れると、勝手に城を明け渡した。さらに“一領具足”達を城外へ追い出し、抵抗する者を徳川勢と共に次々と討ち取っていったのである。騒動はわずか1日の攻防であっけなく終結したのである。

討ち取られた首級は273。それらは塩漬けにされると、大阪に運ばれていった。そして残された遺体はまとめて埋められ、石丸塚と呼ばれるようになり、さらに後年、そこに小祠が建てられた。これが石丸神社の始まりである。

昭和33年(1958年)、石丸神社は観光道路建設のために20mほど移転して現在地に鎮座している。この場所には他にも昭和14年(1939年)に“一領具足”供養のために建立された六地蔵が置かれている。

<用語解説>
◆浦戸一揆
慶長5年(1600年)、土佐の旧長宗我部家臣らが、旧領復活を要求して居城であった浦戸城に立て籠もり、城受け渡しのための徳川氏の上使(井伊直政の家臣ら)を滞在先の雪蹊寺に包囲するなどした。しかし、強硬な一領具足勢に対して旧長宗我部家臣は積極的ではなく、最終的に独断で上使を城に呼び入れ開城してしまう。そして抵抗する一領具足を討ち果たした。その後、ほとんどの一領具足は帰農し、旧長宗我部家臣は“郷士”と呼ばれて実質的に武士身分の下位に置かれることとなった。

アクセス:高知県高知市浦戸