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風神鎮塚
(ふうじんちんづか)
高知県高岡郡津野町高野
 昭和52年(1977年)、国道197号線の拡幅工事の際に1つの塚が移動されることとなった。ショベルカーが塚の下を掘っていくと、供養のために埋められた壷がいきなり勢いよく飛び出てきたという。しかしその壷は地面に落ちても壊れることなく、むしろショベルカーの方が原因不明の故障で修理不能の状態になったのである。この曰く付きの塚が風神鎮塚である。
 この塚に祀られているのは、中平善之進。梼原村庄屋として「津野山騒動」と呼ばれる百姓一揆の主導者となり、後に義人と讃えられた人物である。
 土佐藩は財政建て直しのために、宝暦2年(1752年)に特定の問屋を通じて商品作物を買い上げる専売制を導入する。津野山地域を扱う問屋の蔵屋利左衛門は、その専売制を悪用して作物を安く買い叩いて私腹を肥やした。その不正を藩に訴え出ようとしたのが善之進であった。密告によって捕らえられるも、蔵屋との論戦の場を与えられ、それを論破した。蔵屋はこれによって処刑されたが、善之進も一揆を引き起こそうとした罪を問われて、宝暦7年(1757年)7月26日に打ち首となった。
 ところがその日から高知城下を暴風雨が襲い、7日間に渡って嵐が吹き荒れ、人はそれを中平善之進の祟りであるとして「善之進時化」と呼んだという(この時に高知城天守閣が倒壊したという話があるが、実際にはそのような記録はない)。
 さらに時を経て明治19年(1886年)に、今度は津野山一帯を豪雨が襲い、これも善之進の祟りであると住民は恐れ、翌年に建てたのが風神鎮塚なのである。即ち“風神”とは、暴風雨を引き起こし祟りをなす中平善之進のことを指しているのである。
<用語解説>
中平善之進
1709-1757。東津野村北川庄屋の子として生まれ、29歳の時に津野山郷の大庄屋の養子となり、その地位に就く。宝暦5年(1755年)に起こった津野山騒動では、その責任を一身に背負って不正を訴え出て死罪となる(処刑の直前に藩から助命の使者が出たが、間に合わなかったという)。その事績は、後に梼原から輩出した勤王の志士にも少なからず影響を与えたともされる。
<関連伝承地>

風神鎮塚

中平善之進像

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