蹄の井 馬頭観音

【ひづめのい ばとうかんのん】

防衛大学校の西側そばにあるのが“蹄の井”と呼ばれる伝承地である。コンクリートで造られた祠の中には馬頭観音が安置されており、現在は近くの浄林寺が管理しているとのこと。この蹄の井には以下のような伝説が残されている。

平安時代末期、海を隔てた安房国嶺岡(現在の千葉県鴨川市の南部)の洞窟に一頭の暴れ馬が住み着いていた。土地の者はこの馬を“荒潮”と呼んで怖れていた。荒潮は人が怖れて近づかないのをよいことに、次第に畑の作物を荒らして食べるなど暴れ回った。そしてとうとう人々の怒りは頂点に達し、遂に総出で退治することとなった。さすがに大勢の人間を相手では分が悪く、荒潮は追い立てられ、最後は自ら海に飛び込んで逃亡する羽目となってしまったのである。

だが荒潮は大力の馬である。安房国から何とか対岸の相模国まで泳ぎ着いてしまった。たどり着いたのは小原台(現在の防衛大学校周辺)であった。だがさすがの暴れ馬も泳ぎ疲れて息も絶え絶え、特に喉の渇きは耐えられそうもなかった。この生死のさなか、荒潮に救いの手を差しのべたのが馬頭観音である。観音の導きによって、荒潮が大地を力強く蹄で蹴ると、そこから清らかな水が湧き出てきたのである。それを飲んだ荒潮は息を吹き返した。それと同時に激しい気性が収まり、穏やかな性格の馬へと変貌したのである。

この稀に見る馬は小原台の森に棲み着くようになり、近隣の者も“美女鹿毛”と呼び、その駿馬ぶりの噂は広まった。そこで領主である三浦義澄は美女鹿毛を捕らえると、それを源頼朝に献上した。頼朝もその能力を愛で、名を“生月(いけづき)”として愛馬としたのである。

歴史に名を残す名馬に由来するということで、現在でも競馬関係者が祈願に来るとも言われ、また今でも残る湧き水は夜泣きや百日咳に効くと言って貰い受ける人もあるとされる。

<用語解説>
◆生月(生食・池月とも)
源頼朝の愛馬。後に佐々木高綱が貰い受け、宇治川の合戦で一番乗りの手柄を立てることになる。
なお、生月出生にまつわる伝承は日本各地にあり、東北から九州までかなりの数にのぼる。ただ、この蹄の井も含めて、史料的には有力な出生は特定されていない。

アクセス:神奈川県横須賀市馬堀町