達谷窟

【たっこくのいわや】

達谷窟は坂上田村麻呂ゆかりの地である。延暦20年(801年)この地を平定した田村麻呂は、戦勝は仏の加護であるとして、遠征前より祈願していた京都の清水寺に模した堂宇を建立し、そこに毘沙門天を祀った。それが達谷窟毘沙門堂である。

その後も崇敬篤く、奥州藤原氏や伊達氏が堂宇を建立している。また文治5年(1189年)に源頼朝が平泉平定後に立ち寄ったことが『吾妻鏡』に記録されている。

元々この窟には、悪路王という鬼が住み着いていたという。悪路王は赤頭・高丸などの仲間とともに近隣を荒らし、また京の都にまで現れては姫君を攫っていったのである。その悪行は当然、時の帝の聞き及ぶところとなり、坂上田村麻呂が遣わされることとなったのである。

達谷窟の他にも、悪路王の伝承地が近隣にある。近くを流れる太田川に“姫待滝”という小さな滝がある。京から攫ってきた姫らを上流で幽閉していたのだが、隙を見て逃げ出す者があった。すると悪路王はこの滝で待ち伏せをして捕らえたのだろいう。

さらにはその滝の下流には“髢石(かつらいし)”という巨石がある。逃げ出して再び捕らえられた姫は、見せしめのために長い髪を切られ(あるいは首を切られたとも)、その髪(首)が川を流れてこの石のところで塞き止められたのだという。

悪路王はその名前から、蝦夷の族長であったアテルイの存在がモチーフとなっている推定されている。悪路王の悪逆非道ぶりは、最終的な支配者となる朝廷に対する頑強な抵抗を行った史実の裏返しであることは容易に想像できる。“悪路王の首”と称される木像が、鹿島神宮に納められている。東国に睨みをきかすように派遣された天津神の武神を以てして封じ込めていると見るべきだろう。

<用語解説>
◆坂上田村麻呂
758-811。延暦11年(791年)以降、蝦夷の征討軍の一翼を担い、同15年(796年)に征夷大将軍に任ぜられる。同20年(801年)に蝦夷征討を報告する。東北地方においては、その征討時の超人的な働きが伝説となり、数多くの寺社創建などの伝説に関わっている。

◆アテルイ(阿弖流爲)
?-802。胆沢地方(現在の奥州市)を支配していた蝦夷の族長。延暦8年(789年)に征東将軍・紀古佐美が率いる朝廷軍を打ち破ったことが『続日本紀』にある。延暦21年(802年)に坂上田村麻呂の許に、モレ(母礼)と共に500人余りの者を引き連れて降伏する。その後2人は京都へ入り、田村麻呂の助命嘆願の甲斐なく、河内国で処刑された。

アクセス:岩手県西磐井郡平泉町平泉