大籠キリシタン殉教史跡

【おおかごきりしたんじゅんきょうしせき】

藤沢町大籠は、現在でも自動車を使わないとアクセスが難しい、ある意味秘境の地のような場所である。そのような土地に江戸時代初期のキリシタン弾圧の遺跡が点在している。

大籠の地は、キリシタンとは関係のない製鉄から始まった。千葉土佐(初代)という者が、砂鉄を使う「たたら製法」で鉄を生産していたのだが、生産量が増えないために、永禄元年(1558年)に備中国から千松大八郎・小八郎の兄弟を呼び寄せた。この兄弟が熱心なキリシタンであったため、仕事のかたわら布教に専念し、またたく間にキリシタンの数が増えたのである。その数は伝承によると、最盛期には3万人に達したと言われていた。

慶長17年(1612年)、江戸幕府は禁教令を出し、キリスト教の本格的な弾圧が始まった。元和の大殉教では全国各地で大がかりな処刑がおこなわれた。大籠を領有していた仙台伊達藩でも拷問による殉教者を出したが、大籠での徹底的な弾圧は10年以上も後のこととなる。

寛永16年(1639年)から約3年ほどの間に、大籠でキリシタンの大量処刑がおこなわれた。処刑された数は309名。そして今なおその処刑にまつわる史跡が、街道沿いに点在する。さすがに処刑そのものに関係した物はないが、後年に造られた供養碑(江戸時代に作られているので仏式である)と案内板が置かれているだけの、何の飾りもない殺風景な場所である。しかし簡素であるが故の生々しさ、ここで人が次々と刑死したのだということを否が応でも思い起こさせる雰囲気があった。

最も多くの殉教者を出した場所が「地蔵の辻」である。2年にわたって178名が処刑された。地蔵の辻と県道を挟んで置かれてあるのが「首実検石」。伊達藩の役人が、この石に腰掛けて、処刑の検分をしたと伝えられる。さらにその近くには94名が処刑された「上野処刑場」、集落の入り口あたりには12名が処刑された「トキゾー沢処刑場」がある。

その他にも、斬られた首を晒して埋めたとされる「架場首塚」。上野処刑場に晒されていた遺体を約60年後の元禄年間に埋葬した「元禄の碑」。地蔵の辻に晒された首を親族が取り戻して埋めたとされる「上の袖首塚」。そして絵踏をおこない、キリシタンを捕らえた「台転場」など。これらの地のほとんどは、毎夜のように男女の泣き叫ぶ声が聞こえたり、幽霊が彷徨い出てきて、住民を恐れおののかせたという。

現在、大籠にはキリスト教会が建てられ、またキリシタン殉教公園などの施設もある。

<用語解説>
◆東北のキリシタン活動
大籠にキリスト教を広めたのは千松兄弟とされているが、実際に布教が活発になるのは、江戸幕府が禁教令を出してから以降であると推測される。
幕府に対抗する形でキリシタンに対して接近していたのが伊達政宗であり、家臣に欧米使節となった支倉常長や、藤沢ゆかりの人物で熱心なキリシタンであった後藤寿庵らがいる。禁教令によって西日本や京都・江戸の大都市から逃げてきた信者が、キリスト教に対して理解があると思しき伊達藩の辺境の地であり、比較的流れ者が紛れ込みやすい鉱山のある大籠へ集まってきたのが真相ではないかと考えられる(それでも信者3万人という数はかなりの誇張であると言える)。
ちなみに伊達政宗は、大籠でキリシタンの大量処刑がおこなわれる3年前までは存命であった。

◆元和の大殉教
元和5年(1619年)に京都で52名を処刑。同8年(1622年)長崎で55名を処刑(これが狭義の「元和の大殉教」)。同9年に江戸で55名を処刑。同10年に東北一帯で108名、平戸で38名を処刑。これまではキリシタン取り締まりでは、国外追放などが主な刑罰であったが、この時期より拷問や処刑などの残虐行為が常態化していく。

アクセス:岩手県一関市藤沢町大籠