上の橋擬宝珠

【かみのはしぎぼし】

盛岡の町を流れる中津川に掛かる上の橋には、日本最古級の青銅製擬宝珠が18個取り付けられている。銘によると慶長14年(1609年)に造られたものが8個、同16年(1611年)に造られたものが10個となっている。ちょうど南部利直が盛岡(当時は不来方と呼んでいた)を藩庁として建設していた頃である。

この擬宝珠は盛岡建設の際に新たに造られたものではあるが、それが取り付けられた由来を紐解くと、さらに300年ほど時代を遡ることになる。

三戸南部家の12代当主である南部政行が京都在番中のこと。その年の春になって鹿の鳴き声が都で聞かれるようになった。季節外れの鳴き声は不吉であるとして、歌を詠むことで凶兆を抑えようと“春鹿”の題で広く歌を求めた。政行はそれに応じ、

春霞 秋立つ霧に まがわねば 想い忘れて 鹿や鳴くらん

と天皇の御前で詠じると、鹿の鳴き声が止んだ。天皇は大層喜ばれ、松風の硯を下賜し、さらに都の風情を在所に持ち帰るようにと、鴨川に架かる橋の擬宝珠を模すことを許された。そこで政行は所領の三戸に戻ると、熊原川に黄金橋を架けて擬宝珠をあつらえたという。この故事にならい、27代目の利直が新しい城下町を築く際に、擬宝珠を鋳直したのである。

その後、何度かの洪水で橋は流されたが、擬宝珠は残った。そして戦時中の金属供出の際には、盛岡出身の太田孝太郎の尽力によって急遽国の重要美術品に指定され免れたという逸話も残る。

<用語解説>
◆南部利直
1576-1632。南部氏27代当主。盛岡藩初代藩主。南部氏は三戸を本拠としていたが、利直の代に盛岡に移転する。

◆南部政行
1328-1388。三戸南部氏12代当主。東北にあった南部氏は南北朝の動乱の初期は南朝に属していたが、政行の代である正平元年(1346年)に足利尊氏の誘いの応じて北朝に寝返ったとされる。南北朝時代末期には、三戸南部氏が他の一族を抑えて南部家の宗家のように扱われており、おそらくこの時期に勢力を拡大したと推測される。

◆太田孝太郎
1881-1967。盛岡出身の実業家。岩手日報社長、盛岡銀行頭取。また同時に中国古印の世界的コレクターであり、盛岡の郷土史家としての著作物も多数。

アクセス:岩手県盛岡市上ノ橋町