実盛塚

【さねもりづか】

倶利伽羅峠の戦いで惨敗した平家を木曽義仲がさらに痛撃を加えたのが、加賀国の篠原であった。この篠原の合戦で敗れた平家軍は京都に逃げ戻り、一月の後に木曽義仲は入京を果たすのである。

この篠原の戦いでは、関東出身の平家方の武将が多く加わり討死している。とりわけ有名なのが斎藤別当実盛である。実盛は、かつて源氏に属していた頃、木曽義仲の父・源義賢が討ち取られた直後に義仲を匿って木曽へ送り届けた、いわば命の恩人であった。しかし、今は平家方の一介の武将として、地盤としていた関東を追われて北陸の戦陣に身を投じていた。既に73という老齢に達しており、この戦いを最期の一戦と覚悟していた実盛は、侍大将のみが着用できる錦の直垂を身につけ、さらに老齢であることを隠すために白髪頭を黒く染めて戦いを迎えた。

味方が総崩れとなったところで実盛は殿を務め、手塚太郎光盛によって討ち取られる。最後まで名乗りを上げず、首実検の時になって初めて実盛であったことが分かったという。この老将の首級に、総大将の義仲は昔を思い出して涙したと伝えられる。

斎藤実盛の討死した場所と言われるところには大きな塚が築かれている。応永21年(1414年)、北陸地方で布教をしていた時宗の14世遊行上人・太空が潮津道場(加賀市潮津町)で別事念仏会をおこなっている最中に白髪の老人が現れ、十念を授かるとすぐにその場から立ち去ってしまうという出来事があった。直後からその白髪の老人が斎藤別当実盛の幽霊だという噂が立ち、太空上人は実盛が討死した塚を訪れて回向をおこなったのである。それ以降、時宗の遊行上人が新しく代替わりすると必ず実盛塚を訪れて回向をおこなう風習が今も続くことになる。さらにこの幽霊の話は京都にまで伝わり(醍醐寺座主・満済の日記にも記載されている)、おそらくそれを伝え聞いたであろう世阿弥によって「実盛」という謡曲が作られとされる。

<用語解説>
◆斎藤実盛
1111-1183。越前の生まれ。武蔵国長井庄(現・埼玉県熊谷市)を本拠とする。源義賢に属し、義賢が源義平(義朝の長男、頼朝の長兄)に討たれた後に、遺児である義仲を木曽に送り届ける。平治の乱までは源氏に属するが、それ以降は関東における平氏の有力武将となる。頼朝挙兵後も平氏の武将として残り、富士川の戦い以降は平維盛に属して転戦。倶利伽羅峠の戦いを経て篠原の合戦で討死。

◆謡曲「実盛」
世阿弥作。遊行上人が篠原で連日説法をしていると、老人が欠かさず現れる。しかし上人以外にはその姿が見えない。上人が老人に素性を尋ねると斎藤実盛の亡霊であり、成仏できないことを告げる。上人が回向を始めると、実盛の亡霊が現れ、首実検のこと、錦の直垂のこと、手塚太郎に討ち取られたことを語り、やがて消えていく。

アクセス:石川県加賀市篠原町