残念さんの墓

【ざんねんさんのはか】

元治元年(1864年)京都で禁門の変(蛤御門の変)が起こった。わずか1日の戦闘であったが、薩摩・会津の軍勢によって敗れ去った長州の兵は西へと潰走するが、中には幕軍によって捕らえられたり、小規模な戦闘によって戦死する者も少なくなかった。

尼崎藩内でも一人の長州兵が捕らえられ、牢に入れられた。しかし取り調べの最中に「残念、残念」と言って牢内で自害して果ててしまったという。この人物の名は山本文之助と言い、この話を聞いて哀れに思った里人によって墓が建立され、“残念さん”と呼ばれている。今では「1つだけ願いを叶えてくれる」と言われ、近隣の信仰を集めている。

“残念さん”という名前であるが、一種の流行神のようなものであり、幕末期に非業の死を遂げた者への同情が、反幕府の風潮と合体して爆発的な信仰となったものとされる。尼崎の残念さんの墓についても、藩による墓参の禁止令があったにも拘わらず、参詣する人は絶えなかったという。また尼崎以外にも“残念さん”と呼ばれる墓碑などがある。

<用語解説>
◆禁門の変
京都から追放となった長州藩が、実力行使によって追放撤回を狙ったとされる戦い。最終的に長州は多大な犠牲を払いながら完敗、さらに禁裏に向けて発砲したために朝敵とみなされる。

アクセス:兵庫県尼崎市杭瀬新町