七松八幡神社

【ななまつはちまんじんじゃ】

由来によると、創始は寛仁3年(1019年)、源頼信によるとされる。刀伊の入寇に際し、勅を得て討伐し終えた頼信が凱旋した折、ある小村に立ち寄った。すると一人の童がこの地の窮状を訴えたため、村にあった1本の松の木のそばに6本の松を植えて神社を創建したという(“七松”の地名もこの時の故事にちなむ)。

それほど広くない境内にの一角に、戦国末期の悲劇を伝える碑がある。「七松城落城 なくなられた武士及び家族 故六百二十余人之碑」と刻まれた、まだ新しい石碑である。この碑は、有岡城主・荒木村重の謀反の結果、織田信長によって処刑された人々の慰霊碑である。

荒木村重の謀反はそのきっかけも謎が多いが、結末は無惨なものであった。有岡城に籠もって抵抗を続けていた村重は、茶道具を持ってほぼ単身で突如出奔。さらに隣の城に逃げ込んだ村重を投降させるべく説得に行った重臣達も、そのまま有岡城に戻ることなく逃亡してしまう。城主をはじめ指導者を失った城には、最終的に婦女子や小者だけが残されてしまうことになってしまったのである。『信長公記』によると、見捨てられる格好となった有岡城の婦女子の悲嘆は甚だしく、監視の武士も涙を流さぬ者はおらず、信長も非常に不憫に思っていたという。しかし謀反人に対する見せしめのため、村重の妻子以下親族の者は京都で処刑、他の者は七松で処刑と決まったのである。

天正7年(1579年)12月13日、まず七松での処刑がおこなわれた。最初に分限の侍の妻子122名が磔となった。着飾った衣装を身にまとった女性は槍や刀さらには鉄砲で次々と殺されていった。中には子を抱いた者もいたが、情け容赦なく突き殺された。

さらに端侍の妻子など女388名と付き人などの小者の男124名が4軒の家に押し込められ、火を放たれた。風向きによって人々は魚の群のように揺れ動き、炎にむせび、躍り上がり跳ね飛び、生きながら焼かれていったのである。

しかしながら、現在の周辺は至って静かな住宅地となっており、その時代の面影となるものはこの碑以外には一切ない。現在、七松八幡神社は“忍たま乱太郎”の聖地としての方が知名度があるようである。

<用語解説>
◆源頼信
968-1046。多田満仲の三男。源頼光は兄にあたる。長元4年(1031年)の平忠常の乱を平定し、源氏の関東進出の基礎を作る。子の頼義以降、武家としての源氏嫡流となる。

◆刀伊の入寇
寛仁3年(1019年)に起こった、女真族と推測される海賊が対馬・壱岐・筑前に攻め入った事件。当時、大宰府帥であった藤原隆家によって撃退され、朝廷が事態を知った時には既に刀伊は撃退された後であったという。それ故、上の由来にある「源頼信が勅を得て刀伊を退治した」という話は史実ではない。

◆荒木村重
1535-1586。摂津池田氏の家臣であったが、主家を凌駕して織田信長に仕える。その後摂津国を任されるが、突如謀反を起こし、毛利氏を頼りに有岡城に立て籠もる。しかし約1年後に妻子や城兵を残したまま出奔してしまう。信長の死後は堺に住み、茶人として豊臣秀吉に仕える。千利休の高弟であり、利休十哲の一人と数えられる。

◆荒木一族の処刑
七松での処刑から3日後の12月16日に、村重の妻子と親族、重臣の家族の計36名が六条河原で斬首となっている。中でも村重の妻・だしは美しい女性であったが、首を打たれる直前に髪を高く結い直し、小袖の襟をくつろげて、潔く死を迎えたと記されている。

◆『信長公記』
織田信長の家臣であった大田牛一が著した、織田信長の伝記。江戸時代初期に成立。

アクセス:兵庫県尼崎市七松町3丁目