才蔵寺

【さいぞうじ】

才蔵寺は、関ヶ原の戦い直後に広島を領した福島正則の家臣・可児才蔵吉長を祀っている。境内には、甲冑をまとって槍を持つ才蔵の像があり、彼の墓と言われる石碑もある。そしてその碑の前には“ミソ地蔵”の名を持つ地蔵がある。ご利益は脳病全快・知能啓発など、頭にまつわるものとなっており、その祈願の方法が非常にユニークなものとなっている。

まず願い事を書き、それを味噌の入った袋に貼る。その袋を地蔵の頭の上に乗せて拝み、さらに今度は自分の頭の上に乗せてお願いをして、味噌を奉納するのである。いつの時代からこのような方法になったのか分からないが、初めは墓の後ろに生えてきた竹の葉に脳病全快のご利益があり、祈願回向の際に味噌を奉納する習わしであったとされる。現在では、受験合格祈願に多くの者が訪れる。

可児才蔵は剛の者として名を馳せ、特に関ヶ原の戦いでは敵の鎧武者の首を20も挙げる活躍を見せ、徳川家康から激賞されている。そして戦巧者で知恵のある武将としても周囲から敬慕されていたという。

味噌と才蔵との関わりあいであるが、才蔵の好物が味噌であったとか、味噌の効能を才蔵が大いに喧伝して味噌造りを奨励したなどの伝承もあるが、知勇を兼ね備えた剛将の面目躍如と言うべき伝説がある。

元和5年(1619年)、福島正則の広島藩は些細な落ち度が発端で改易処分となる。その幕府のやり方を理不尽として、可児才蔵は数十名の同士と共に小城に立て籠もって抵抗を始めた。新たに広島藩主となった浅野家は城を攻めるが、石垣を登る兵に煮えたぎる味噌汁を掛けて撃退するなどして降伏しない。ついに浅野家は兵糧攻めを始めるが、ここで才蔵は対抗策を立てた。城山にあった地蔵さんに笹の葉を供え、さらにその上に米と味噌を乗せて祈ると願いが叶うという噂を広めた。多くの者はそれを信じて多くの米と味噌が集まった。これによって兵糧を確保した才蔵らは存分に抵抗を続け、いつの間にか小城から姿をくらましてしまったという。

<用語解説>
◆可児吉長
1554-1613。尾張の出身で、斉藤氏をはじめ織田家・豊臣家の有力武将に仕え、最後は福島正則の家臣となる。宝蔵院流の槍を胤栄から学び、槍の名手とされる。また合戦では最前線で敵を討ち取ること多数で、首級を持ち歩けないために、旗指物であった笹の葉を敵の口にくわえさせて、自ら取った首の目印とした。そこから“笹の才蔵”という異名を取った。
最期は、信仰する愛宕権現の縁日に死ぬと予言し、当日甲冑を身にまとって腰掛けた状態で亡くなったという(上にあるミソ地蔵の伝説は、才蔵の没年と福島家の改易の年にずれがあるため、史実ではない)。墓は西国街道沿い(現在の才蔵寺辺り)に設けられたが、西国大名が参勤交代の折に前を通りがかると、名のある武士は下馬して花と水を手向けたと言われる。

アクセス:広島県広島市東区東山町