疱瘡神社

【ほうそうじんじゃ】

源三位頼政の側室であった菖蒲御前は、頼政が宇治川の合戦で自害した折に安芸国へと郎党・猪早太と共に退去している。そして安芸国にたどり着いてからは、京より共に落ち延びた子の種若丸を病で失うも、頼政の子である豊丸を当地で産み育てていた。その後に平氏が滅びると、菖蒲御前は安芸国賀茂郡を朝廷より賜る。打倒平氏のために挙兵して亡くなった頼政の功績によるものである。

それからしばらくは平穏な暮らしをしていたが、突如争い事に巻き込まれることになる。沼田の荘を治めていた地頭の土肥遠平が夜討ちを仕掛けてきたのである。居館は焼かれ、菖蒲御前はわずかの供回りと共に逃げざるを得なかった。

侍女の命を賭した行為で追っ手を撒くも、遂に菖蒲御前の一騎だけとなってしまい、あとは後方から追いすがる敵の兵馬の声が聞こえるのみ。もはやこのままでは逃げ切れないと悟った菖蒲御前は馬から下りた。そして馬に向かい、お前の腹を割いてその中に隠れさせてはくれまいか、その代わり菩提を馬頭観音として供養しようと懇願したのである。それを聞いた馬はさめざめと涙を流し、その言葉に納得したように地面に横たわった。菖蒲御前も涙ながらに馬の命を絶ち、腹を割いてその身を隠したのである。その直後、敵の兵は菖蒲御前の乗った馬が血を流して死んでいるのを見つけた。人の姿は見当たらないが、もはや生きてはいまいと判断してその場を離れた。こうして菖蒲御前は九死に一生を得たのである。

その後、菖蒲御前は約束通り馬頭観音をつくって、馬の菩提を弔った。これが八本松にある疱瘡神社の起こりとされる。かつては“死止観音”とも言われ、子供の病気に霊験があるとされ、特にこの神社で祈願すると疱瘡(天然痘)が早く治ると言い伝えられたため“疱瘡神社”という名で呼ばれるようになったようである。馬頭観音は神社の境内の一角にある祠の中に安置されているらしいが、未確認。神社に奉納された額に描かれた白馬が、この神社の縁起を示している唯一のもののように感じた。

<用語解説>
◆菖蒲御前
生没年不明(この東広島の伝承では1204年没)。鳥羽院の女房であったが、源頼政が一目惚れをし、鵺退治の際に賜ったとされる(その時に、年格好が同じの女性を5名御簾越しに後ろ向きに並べて、鳥羽院が頼政に菖蒲御前を引き当てるよう命じた。しかし頼政は困惑し歌を詠んで回避した。鳥羽院は歌に感じ入って、自ら菖蒲御前を引き渡したという)。

◆源頼政
1104-1180。「鵺退治」で有名な武将。平氏の全盛期にあって、唯一源氏の長として政権下にあった。しかし以仁王の打倒平氏の挙兵に参加し、最期は宇治平等院で自害する。

◆猪早太
生没年不明。源頼政の鵺退治に従い、鵺のとどめを刺したとされる剛の者。東広島の伝承では、その後、勝谷右京と名乗り、観現寺を建ててその寺を守ったとされる(現在もその寺に墓がある)。

◆土肥遠平
?-1237。源氏の功臣・土肥実平の嫡男。父と共に源頼朝の挙兵から従軍する。相模国の本拠地と共に、安芸国の沼田郡の地頭職に就く。後に沼田に定住し、小早川の姓を名乗る(小早川家の祖)。なお夜討ちを仕掛けたのは、近在の土豪の三浦掃部介ともされている。

◆菖蒲御前の一族
菖蒲御前の次男の豊丸は、後に成人して水戸頼興と名乗り、菖蒲御前らと共に暮らし、厳島神社神官の佐伯氏より妻を娶る。夜討ちを掛けられた際は、所縁の寺の福成寺に逃げ込み難を逃れる。その後家臣を集めて再起を図るが、その途上で病死。なお佐伯氏との間に一子があったが、父の死後に帰農したとされる。

アクセス:広島県東広島市八本松町飯田