鎌原観音堂

【かんばらかんのんどう】

天明3年(1783年)の浅間山大噴火は関東周辺に甚大な被害をもたらした。中でも壊滅的な被害を受けたのは、北部に位置した鎌原村であった。大噴火の3ヶ月ほど前から火山活動が盛んとなり、多くの火山噴出物が溜まりに溜まったところで噴火が起こり、土石流と火砕流による大崩落が起こったのである。

当時、鎌原村の人口は約100世帯で570名。馬を200頭ほど飼っていたという記録があり、上州と信州を結ぶ宿場町を形成していた、かなり規模の大きい集落であったと推測されている。しかし、この大噴火によって一瞬にして村は壊滅、土砂の下に埋まってしまった。生き残った村人は僅かに93名。そのほとんどは高台にあった鎌原観音堂にまで避難出来た人であったという。

現在、観音堂に登るために設けられた石段は15段であるが、言い伝えでは100段を超える長い階段であったとされていた。昭和54年(1979年)の発掘調査で、15段の石段の下にさらに35段の石段が続いていたことが判明、村に流れ込んだ土石流の凄まじさが改めてわかった。そしてこの石段の最下部から2体の白骨遺体が発掘された。若い女性と年配の女性であり、その態勢から若い女性が年配の女性を背負ったままここまで逃げてきたが、力尽きてここで土石流に埋もれてしまったのだろうと推測された。さらに顔の復元から、この2人の女性は親子かあるいは年の離れた姉妹ではないかとされた。

壊滅的な被害から人々を救ったということで、現在、鎌原観音堂は厄除け、特に災害除けのご利益があるとされている。そして鎌原の集落はうち捨てられることなく、その後、災厄から逃れた村人自身によって再び復興を遂げている。

<用語解説>
◆浅間山の天明大噴火
天明3年(1783年)旧暦の7月8日に大噴火があり、鎌原村は土石流などで埋没してしまう。さらにこの土石流は吾妻川を一時的に堰き止め、直後に決壊して鉄砲水を起こし、1500人以上の死者を出した(下流にあたる前橋でも被害があったとされる)。またこの噴火が天明の大飢饉を一層深刻なものにしたとも言われる。

アクセス:群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原