[県別一覧へ]

元景寺 淀君の墓
(げんけいじ よどぎみのはか)
群馬県前橋市総社町植野
 曹洞宗の古刹である。創建は天正18年(1590年)、秋元長朝が父の菩提を弔うために建立したとされる。その後、関ヶ原の合戦後に長朝はこの総社の地を領有し、総社藩1万石の藩主となる。そして高齢ながら大坂夏の陣にも参戦している。
 総社には、この大坂夏の陣にまつわるまことしやかな伝承が存在する。大阪城落城の折、秋元家の陣中に豪奢な着物を身にまとった女性が飛び込んできて、命乞いをしたという。長朝はその女性を、大阪城の主・淀君であると察して匿ったのである。そして戦いが終わった後、所領である総社へ駕籠に乗せて連れて帰ったというのである。
 元景寺には、秋元家の墓のそばに淀君の墓と伝えられるものが残されている。そこに刻まれている戒名は「心窓院殿華月芳永大姉」。戒名としては最高位の諡号となっており、説明にある“側室の墓”というには無理があると考えられる。また元景寺には、正絹の大打掛と豪華な籠の引き戸が伝えられており、これが淀君所有の品であるとされている。
 しかし、総社に連れて来られた淀君の後半生は不幸であったとされる。世を憚って“お艶”という名で呼ばれるようになった淀君であるが、その美貌から秋元長朝に言い寄られたものも拒絶したため、遂には箱詰めにされて利根川に沈められたとも言われる。また生活になじむことが出来ず、自ら利根川に身を投げたともされる(身を投げたとされる岩が“お艶が岩”として敷島公園に残されているが、この岩には別伝も存在する)。いずれにせよ天寿を全うすることなく亡くなったという伝承で終わっている。
<用語解説>
秋元長朝
1546-1628。はじめは北条氏に仕えていたが、小田原落城の際に隠棲。その後、推挙によって徳川氏に仕える。関ヶ原の戦いでは、会津の上杉景勝への詰問の使者として、さらに戦後に上杉降伏に尽力し、その功で総社藩1万石の大名となる。その後、息子の代で転封となり、総社藩は消滅する。

淀君
1569?-1615。浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の長女。後に豊臣秀吉の側室となり、秀頼を生む。史実では、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において大阪城内にて自害したとされる。
<関連伝承地>

淀君の墓

[HOME]