夜叉龍神社

【やしゃりゅうじんじゃ】

祭神は夜叉龍神。この地からさらに10kmほど北上したところに登山道がある夜叉ヶ池の主であり、また龍神の嫁となった夜叉姫を祀る。

正保4年(1647年)、大垣藩主の戸田氏鉄はこの地を訪れ、夜叉ヶ池の伝説を聞いて感銘し、夜叉姫の髪洗池のほとりに夜叉龍神社を建立したのが始まりである。その後治水の神として大垣藩の崇敬を受ける。しかし明治28年(1895年)この付近一帯襲った鉄砲水によって神社は流失する(この時に夜叉姫の髪洗池もなくなってしまう)。

しばらく御神体などは別の場所に安置されていたが、昭和9年(1934年)に揖斐川電工株式会社が川上発電所を開設する際に、治水の神、村と会社の平安隆盛を祈願するために復興されたのである。揖斐川電工株式会社は,現在ではイビデンという会社名で電気機器製造メーカーとして存続しているが、現在でもこの夜叉龍神社へ役員が参詣しているという。

<用語解説> 
◆夜叉ヶ池伝説
弘仁8年(817年)、美濃国を大干魃が襲った。窮した郡司の安八太夫安次は、小さな蛇を見つけると「雨を降らせてくれるなら、娘をやろう」とつぶやいた。するとその夜の夢枕に小蛇が現れ「私は龍神である。望み通り雨を降らせる代わりに娘をもらう」と言うと、たちまち雨が降り出した。翌日、龍神は若者に姿を変じ、安八太夫の許を訪れる。太夫は事の子細を3人の娘に告げると、末娘が「ならば」と承諾した。そして娘は若者と共に揖斐川の上流へと向かったのである。そしてしばらく後、娘を案じた安八太夫は揖斐川の上流へ行き、さらに山の上の池を訪れて娘の名を呼ぶと、既に龍の姿に変じた娘が現れ今生の別れをした。その後、安八太夫は龍となった娘を祀る祠を池(奥宮)と自宅(本宮)に建てた。そして池は、娘の名を取って夜叉ヶ池と呼ばれるようになったという。

◆戸田氏鉄
1576-1655。徳川家康の近習として仕える。関ヶ原の戦いの後、膳所藩、尼崎藩を経て、寛永12年(1635年)大垣へ転封となる。大垣藩時代には新田開発と治水に尽力し、藩の経済基盤を作り上げた。そして明治維新に至るまで、戸田氏が大垣藩を領することとなる。

アクセス:岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内川上