白河の関

【しらかわのせき】

奥州三関の1つとされる白河の関であるが、その創設の時期は不明である。関と名が付くが、実際には国境の警備をおこなう防衛施設の性格が強いとされている。そのためおそらく大和朝廷の勢力が関東にまで広がった5世紀頃には、北の防衛のために作られていたのではないかと推測される。

大和朝廷の勢力がさらに広がり、東北北部にまで及んだ平安時代の前期には、白河の関は機能を失っていたと考えられる。ところが、思わぬところから白河の関は有名になる。

都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関

能因法師が詠んだこの歌によって、白河の関は歌枕として一躍脚光を浴びることとなる。しかし白河の関そのものは廃止され、その所在も不明となってしまう。ただ陸奥の入り口という符丁として生き残り続けることになる。

白河の関があった場所が定められたのは、寛政12年(1800年)のこと、白河藩主である松平定信の考証による。その場所は白河神社の建つところとされ、そこに古蹟跡碑が建てられた。その後、1960年代に調査がおこなわれ、土塁や空堀などの防御施設の跡が発見され、関の存在が実証されたのである。

<用語解説>
◆奥州三関
白河の関・鼠ヶ関(念珠ヶ関)・勿来の関。

◆能因法師
988-1050。中古三十六歌仙の一人。全国各地を旅して歌を詠んだとされる。

◆松平定信
1759-1829。徳川吉宗の孫に当たる。白河藩主として倹約政策をおこなって成功、その後に老中となり寛政の改革をおこなう。また学問を好み、『宇下人言』や『花月草紙』などの著作もある。

アクセス:福島県白河市旗宿